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高校在学中にプロデビューを果たしてから以後50年以上、第一線で活躍を続けるサックス奏者の古谷充さん。北野タダオとアロージャズオーケストラの創成期にリードアルトを務め、23歳で結成した古谷充とザ・フレッシュメンでは関西随一のトップ・コンボとして人気を博しました。近年では同じくプロサックス奏者である長男の古谷光広さんとともにバンドをを結成し、精力的な活動で常に刺激的なステージに立ち続けています。そんな『終生現役』と誓う古谷さんに、ジャズとともに歩んできた半生をおうかがいしました。 |
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1936年2月13日、大阪生まれ。京都音楽大学(現京都芸大)在学中に、アルト・サキソフォン奏者として、ジャズバンドに参加。北野タダオとアロージャズオーケストラ等を経て、古谷充とザ・フレッシュメンを結成。ヴォーカリストとしての評価も高く、1995年には第11回ツムラ・ジャズ・ヴォーカル賞特別賞受賞。98年尼崎市民芸術賞、99年大阪舞台芸術賞受賞。現在は古谷充 Neo Saxophone Band、古谷充 Neighborhood Big Bandをはじめ、数々のバンドを主宰。 |
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「僕が初めて手にした楽器は小学5年生のときに始めたヴァイオリン。今でこそ音感教育はピアノで行いますけど、僕らの時代では絶対音感よりも相対音感が重視されていたんですね。自分でピッチを決めるヴァイオリンが相対音感を養うのに良いとされていたんです。結構一生懸命練習して、音色の良さとかにも目覚めるぐらいには上達したんですけど、そこからがなかなか上手くならないんですよ。
それで中学校はヴァイオリンと並行して、ブラスバンドに入ってクラリネットを始めたんです。そしたら案外すぐ上手く吹けるような感じがして。もともと親父がサックスとクラリネットを吹いてたこともあったんでしょうけど、今になって思えば楽器も人それぞれ向き不向きっていうのがあるんでしょうね。それが最初に出会う楽器とは限らず、遠回りすることもあるだろうけど、それも無駄じゃなくて後々になって役に立つこともあるからいいと思うんですけど。大切なのは『一生この楽器と一緒にやっていけるな』っていう楽器との出会いですよ。
高校は京都市立堀川高校の音楽課程に進みました。それはヴァイオリンで入ったんですよ。今では考えられないけど、当時の僕は結構頭が良くてね(笑)。でもやっぱりクラリネットがええなあということで、途中で転科しまして。そうこうしてるうちに叔父が米軍キャンプでやってたナインピースのジャズバンドに欠員が出て、親父から『楽器買ったるから、お前やらへんか?』という誘いがきたわけですよ。高校2年生のことでした。僕が初めてサックスを始めたのはそのときです」 |
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「サックスの練習を始めてから3ヶ月後にはプロのステージを踏んでいました。今考えると恐ろしいですよね。最初は春休みの間だけっていう約束だったんだけど、全然やめさせてくれなくて、毎日京都から大津にある米軍キャンプまで通ってましたね。
戦後の日本のジャズ復興は、やっぱり米軍キャンプの存在がすごく大きいんですよ。もちろん下地として、戦前のジャズがあって、その人達がバンドマスターとして活動されてたというのもあるでしょうけど、米軍が日本にいなかったら、日本のジャズは発展しなかったんじゃないかと思いますね。
僕がプロ入りしたのは1954年だけど、その頃に日本はぐっと景気が良くなってきてね。最初はダンス音楽として復活したジャズも、景気の上昇とともにコンサート音楽として浸透していきました。なかでも、皆がジャズを聴くきっかけになったのはジョージ川口さん。歌謡曲を聴いてる連中をジャズに引っ張り込んだ功績は大きいと思いますね。
あと、僕よりもちょっと上の世代に秋吉敏子さんや渡辺貞夫さんがいるんですけど、彼らの存在はすごく大きかった。まだ何も情報がない時代にビバップとか始めて、アメリカに勉強に行っちゃったりしてね。本当に素晴らしい先輩だと思います。
で、その頃の僕はというと、いくつかのバンドを経験した後に、大阪の歴史に残るナイトクラブ『アロー』にいました。北野タダオさんのアロージャズオーケストラ(AJO)のリードアルトだったんです。そこで奥さんとも出会いましたしね。北野さんのアレンジはそれはもう素晴らしくてね。ただ、でも僕はやっぱりソリストになりたいという夢が捨てきれなかったんですよ。そうしたら北野さんが当時所属していたプロダクションに『古谷くんに自分のバンドを持たせてやってくれ』と掛けあってくれたんです。そうして結成されたのがザ・フレッシュメンです」
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「フレッシュメンのおかげで、僕は23歳にしてバンドマスターになっちゃった。その年齢で僕を含めた5人の給料を稼がなくちゃならない立場ですからね、そりゃもう大変ですよ。でもちょうどその頃に、同じプロダクションにアイ・ジョージと坂本スミ子が入ってきたんですよ。それで、アイ・ジョージとAJO、坂本スミ子とフレッシュメンというプロジェクトチームができたんですよ。二人は売れっ子だったので、全国も回るしテレビにも出るしで僕らの知名度もウナギ登りですよ(笑)。結局フレッシュメンの第一期は18年続きました。23歳だった僕も気づけば40歳になっててビックリしたね。
ちなみに僕が歌を歌い出したのもアローにいた頃。バンドチェンジのときにピアノが場をつないでいたんだけど、それだけじゃ寂しいから歌を入れようってことになって、うっかり『歌うのが好きです』って言っちゃったんですよね。それが僕の歌を始めたきっかけ。
当時は歌が上手いと思ってたんですよ。シナトラのように歌えてるって思ってた(笑)。何故かというと、その当時は録音機材がなかったから、自分の歌を客観的に聴くことがないからなんですよね。でも、あるときAJOが『お昼の軽音楽』っていう生放送のテレビ番組に出演したときに、たまたま録音もしていたんですよ。それを後で聴いて、『うわあ、俺めっちゃ歌下手やな!』と思ってしまって、そこから真剣に歌を勉強しましたね。まあ今では、自分が歌うときには、技術も大事だけど、できるだけ自分が感じたままにいこうと思ってますけども。
そんな僕もスイングジャーナルのランキングでは、何故かサックスよりもボーカルの方が遥か上にいるからね(笑)。軽い気持ちで始めたボーカル塾ももう10年以上続いてますし、本当に人生って不思議なもんですよ」 |
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「で、今は息子の光広たちとやっているバンドが本当に楽しいですね。選曲は光広たちに任せてるんですよ。自分で選んだらわざわざ難しい曲は選ばないけど、彼らは容赦なく『これはどうや!』って持ってくるんですよ。楽譜見たら『え?これ大丈夫?』ってなるわけ。でも、曲を聴いたら『カッコイイな、やろか』ってなっちゃうんですよね(笑)。
特にNeighborhood Big Bandには同世代の宗清洋さんもいるんで、宗清さんには『お互い70超えてるんやから、あんまり無理せんように』って言われてます。でもこの年齢までずっと音楽一筋でやってこれたのは本当に幸せ。この感じでまだまだやっていけたらいいなあと思います。
今、不景気で若いミュージシャンも大変ですけど、パソコンで簡単に音楽も編集できるし、CDだって安いプレスショップがある時代。インターネットもあるし、そういうツールを上手く活用して頑張っていって欲しいですね。ただ、簡単に誰もがCDを作られるようになった分、誰も求めてないようなCDを作ることがある種の罪悪だっていうことも知ってほしい。『売れる』と『やりたい』の接点を見つけてこそのプロですから。お客さんは『よければどうぞ』ではなくて『良いから買いなさい!』と自信のある一言が欲しいわけ。まあ、若いうちは『やりたい』だけでもいいけど、それならもっと『聴いて欲しい』っていう説得をステージ上でしないとね。
技術的にもセンス的にも底上げされてるし、勉強しようと思えばいくらでも材料が揃う時代です。演奏は今の若い子たちの方がずっと上手いですよ。僕が同じ年齢の頃に、そんなふうに演奏できてたかなって思うもの。だからこそ、せっかくやのに、と思うわけですよ。僕もまだまだ負けてはいられませんけど、そういう勢いのある子たちがどんどん出てくればいいのになと思います」
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