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ジャズピープル

新しい発想で自由に表現

日本では珍しいチェロでジャズを表現する吉川よしひろさん。吉川さんにとっての”ジャズ”とは、新しい発想の中で自由に表現して、新しい発想の音楽を作っていくこと。そんな吉川さんはジャズの演奏にとどまらず、演奏スタイルやライフスタイルまで新しい発想であふれています。これまでのご経験から現在のライフスタイルまで幅広くお話をお伺いしました。

person

吉川よしひろ

 山形県鶴岡市出身。JAZZ・ヒーリング・民族音楽を融合させた独自の音楽を即興演奏にのせた未だかつてない“一人チェロパフォーマンス”奏法で国内外で活動。その演奏スタイルは生まれながらにして片耳聴覚障害のハンディキャップを補うために編み出されたもので、これまで海外公演でも高い評価を得てきた。19歳の時にミュージシャンを目指し上京。A.N.MusicSchool入学。22歳でプロデビュー、その後は著名アーティストのツアーサポートのかたわら、スタジオミュージシャンとして活動。有名アーティストのレコーディングやJazzセッションに参加するなどプロの第一線で活動後、単身渡米。ジャズの本場ニューヨークにて活動を開始後、2008年日本へ帰国。現在は日本に拠点に置き、コンサートのみならずハンディを題材とした講演活動にも取り組み、話題を集めている。同じ東北出身の詩人「宮沢賢治」に敬意を表し、これまでステージでは欠かさず東北弁で「雨ニモマケズ・・風ニモマケズ・・」を朗読、この「詩」と吉川氏自身を重ね合わせ「宮沢賢治」の生きてきた道を語りかけている。チェロから奏でられるメロディーのみならず、彼の口から語られる言葉は数多くのオーディエンスから絶賛され、全国各地を周り、今までにない斬新なスタンディング“一人チェロパフォーマンス”スタイル奏法で多くの人々を魅了してやまない。

interview

コントラバスからチェロへ。 180度発想を変える。

── チェロを始めたののはいつ頃からでしょうか。

吉川「私がチェロを始めたのは遅いです。元々はコントラバスをやっていました。チェロはやってみたかったのですが、当時、山形県の田舎にはそういった先生がいらっしゃらなかったので。田舎で、先駆者も先生もいませんでしたから。その前に自分が何になりたいのか。10代の頃って進学にしても何にしても悩む頃ですよね。結果的に音楽学校にはコントラバスで入学することになりました。」

── コントラバスからチェロに代わったのは?

吉川「弦楽合奏と言うと必ず、バイオリニストやビオラやチェリストっていますよね。コントラバスって、当時は保守的でパーツのような存在に捉えられていました。弦楽器の4種類で言うとバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスの中で一番"人の声"に近いのがチェロなんですよね。チェロ1本で男性の低い音域から女性の高い音域まで唯一出せる楽器はこのチェロなんですよね。この楽器はただ、オーケストラの中の一つの楽器としとしてではなく、単独の一つの楽器としてもっといろんな可能性があると思っていました。また、当時、そういった奏者を探してみても日本にはいなかったのです。それが転向するきっかけになりました。全く辞めてチェロですぐに通用するものではないですから、ゆっくりコントラバスからチェロにシフトしていき、チェリストになりました。始めたのが遅かったので、他人と同じことをやっても仕方がありません。ですので、人がやっていないチェリストになろうということで、全然違う奏法で、発想も180度変えました。」

── それからチェロアコースティックスの活動を始められたのですか?

吉川「チェリストとして活動するとともに、一緒にできるチェリストも探していました。芸大出身の方と、本当はチェロ二本でやろうと思ってました。ただ、模索してみたものの相手と方向性が違うなと思いうまくいきませんでした。自分の考えで若いバイオリニストとかピアニスト、ドラマーを探ってみて、チェリストも相当探したんだけど、柔軟に物事を捉えてくれるチェリストが当時いなかったですね。僕は人と同じことをするのも大切なんだけど、やっていないことを常に目指すタイプの人間なので、ザ・チェロアコースティックスというのはそこから始まったんです。」

新しい発想の中で自由に表現して、新しい発想の音楽を作っていく

── どんなチェリストを目指していたのですか?

吉川「2000年ごろからジャズではなく、新しいカテゴリーでクラシックの要素のある音楽が登場したころです。ライブをやるとどこも超満員で、多くの人に受け入れられました。ただ、独特な”ジャズの匂い”の感じるチェリストは当時いなかったですね。」

── ”ジャズの匂い“とはどういったものですか?

吉川「あくまで僕個人の定義になります。私は2003年にNYに渡り、活動するようになってニューヨーカー達に言われたことは、"ヨシ(吉川さんの愛称)、お前はジャズの定義ってわかるか?”ジャズの定義っていうのは1950年代前後にジャズのスタンダードが生まれ、それを4ビートでやって、日本ではそれを総称してジャズという解釈が多いと思う。しかしNYでは"新しい発想の中で自由に表現して、新しい発想の音楽を作っていくことがジャズだって言うんだよ"と教えてもらった。僕はその瞬間"ハッ"と思いました。民謡でもクラシックでもその音から自由に発想を膨らますこと、表現していくことができるんだと。しかしながら、その中に4ビートのジャズのテイストを感じさせることができないとジャズとは思われないんだよね。ただ自由に弾いているんじゃなくて、そこに4ビートのジャズのテイストっていうのが必要になるんだよね。それはジャズのスタンダードの基礎がないとできないことだと思う。ただ、これはあくまで僕の個人としてのジャズの定義です。」

── 吉川さんのジャズの定義は分かりやすくて、勉強になります。

吉川「人それぞれの定義で構わないんだけど、僕はそのことからとても開放されたような気分を感じた。ジャズ=1950年代に生まれたスタンダードジャズをやるというのがジャズだ、と思っていたので、そこから開放されて自由になった。だから、私は童謡も民謡もクラシックも奏でるし、そこにアドリブの要素を加える。そういうことをやっているチェリストはいないと思う。私は潜在的に片耳が聞こえない状態で生を受けたから、音楽を勉強している時にとても辛い思いもしました。目指すところが保守的だったのだと思う。紆余曲折あって、たどり着いた人は音楽も深いし、言葉も深いし、人間も深い。継続しているから人前で話せるし、世の中の皆さんも観てくれる。」

── ところで吉川さんと言えば、チェロをスタンディングで演奏するスタイルが有名ですが。いつ頃からそのスタイルになったのでしょうか。

吉川「ニューヨークにいるときに、個性がないとやっていけないよと言われ。日本ではチェロは椅子に座って弾いていますよね。僕もニューヨークでは最初そのスタイルだったんですけど、演奏だけでなくてパフォーマンスとして、そのスタイルに変更していきましたね。他とは違うやり方を常に考えています。それがだんだん個性になってきて、ピチカート(チェロを指で弾いて弾く)を活かしたりしながら一人で演奏するスタイルになっています。」

── 発想を変えるというのは音楽以外にも影響していますか。

吉川「僕はニューヨークから戻って、ジャズハウスでは演奏をしなくなりました。なぜかというと酒とたばこの中で演奏するのも素晴らしいけど、やっぱり健全な中でジャズを考えて、新しいカテゴリーの人たちを引き込んで発展させていくアーティストになりたいと思うようになりました。ジャズハウスという限られた場所ではなく、もっと広く一般の方を巻き込んで音楽をやる方がマーケットも大きい。そういう考え方ですね。」

人間の活かされている時間を無駄にしない。

── 今は独りで演奏されていますが、他のミュージシャンとセッションすることはないのでしょうか。

吉川「耳の関係が大きくて。実はどんどん聴力が落ちています。チェロっていう楽器は、自分で音程をとる必要がある。ということは、自分の音が聞こえないと音程が取れないんです。だから、僕は人と演奏すると自分の音が聞こえなくなるんです。相手がどういうボリュームでやっているかというのを分かってもらえないと自分のグルーヴ感でやっている人だと、音量を落とすということを知らない。そうなると自分の音も聞こえなくなって、キャッチボールができない。そういうのにイライラして自分の音楽もできなくなる。悪循環ですね。」

── ジャズはキャッチボールをしている印象がありますが、現実には少し違うということですか。

吉川「それは、健常者の方は全て聞き分けられるんだけど、そうじゃない人でも音楽を愛してるプロの方もいるんですよと。お互いの理解がとても大切になってきます。だけど、今は、僕は利益を求めているのではなく、チェロで新しいジャズの世界を創り出したいと思っている。もちろん、有名な方とのセッションのご縁もこれまでいただいたけど、それよりも、楽器の特性を活かして、奏でている瞬間にどれだけのお客さんの心を掴んで、表現できるかというのが本当のプロのアーティストだと思う。ところで、人間の活かされている時間はどのくらいあると思いますか?」

── たしかに健康で、精力的に仕事ができる時間はそう長くはないように思います。

吉川「逆算して、イライラしたり、変に悩む時間を別のために使った方がいい。もちろん、それは誰の責任でもなく、自分の責任です。それを選択するのは自分だし、時間を費やすのも自分。私ははっきりしていて、人前で演奏しないとお金にはならない。何もしなければ1円も入ってこない。それは、覚悟するしかない。でも自分が好きで選んだ道でしょと。そういうことも加味して、やりたい音楽をやっていきたい。」

── 先ほどニューヨークに行かれたお話がありましたが、やはりそこでのご経験はご自身の考えに大きく影響されていますか。

吉川「僕は全てを捨てて50歳でニューヨークに行きました。ただ、ニューヨークへ行くのに歳は関係ないですね。オリジナリティが大切です。世界からすごい人たちが集まる場所だし、異様ですよね。自分というものを持っていないと通用しないところです。僕は5年間いて、アーティストビザも持っていましたけど、全て放棄し、日本に戻ることにしました。ニューヨークで培ったものを日本で伝えていきたいと思いましたし、日本はマーケットもきちんとしていて素晴らしいところ。アメリカは移民の国なので、多様性もあるし、新しいことも次々生まれるけれど、観たくないことまで見えてくる。きれいごとばかりではない世界を見てきました。日本に戻り自分で感じた部分をチェロに載せて伝えていきたい。それが僕のミッションじゃないかなと思っています。」

キャンピングカーでの演奏生活


── 神戸での思い出などあればおしえてください。

吉川「12月に開催されている神戸ルミナリエの1回目に僕はゲストで呼ばれて演奏したことがありますよ。あちこちの建物で、演奏しましたね。二日間やりました。歴史ある建物や銀行の前など、すごいたくさんの人の前で演奏したのを覚えています。作曲してほしいとも頼まれて、神戸の震災の時に"明かり"がなかったということを聞いたのと、僕は雪国出身だから、雪のダイヤモンドダストをイメージして作曲しました。それがルミナリエ全体に流れました。」

── キャンピングカーで日本を回っているとお聞きしましたが。

吉川「今は熊本県に置いています。僕は都内に自宅があるんですが、キャンピングカーを東京で登録しようとすると場所がなくて大変なんです。2m×5mを超えるんです。だから車を登録するためと自然が大好きというのもあって、箱根にも家を買いました。箱根は標高1000mなので、雪が積もることがあります。そうなると車が動かせなくなるので、12月ごろになると熊本に車を置いておいて、飛行機で東京に帰ってきます。また、3月くらいになると九州ツアーを自分でブッキングして回ります。」

── 素敵なライフスタイルですね。1年でどのくらいキャンピングカー生活を送っているのですか。

吉川「一番多い時で、キャンピングカーで10か月生活したことがありました。それはニューヨークで培ったものが大きいですね。メディアの発信もそうですが、東京である必要は必ずしもないんですね。文化の発信は自分がやればいい。今は1年のうち8か月はキャンピングカーで生活しています。シャワートイレ付、冷蔵庫もあるし、サブバッテリーも付いている。屋根は太陽光パネルをつけています。魚が食べたいなと思えばその場で釣りをしたりしますよ(笑)。あと、車の中で毎日2時間は練習しますね。今はyoutubeも車の中で見られるので、音楽資料なんかをゆっくり見たりすることもできます。」