HISAO NISHITANI / Music Producer
神戸から、世界へ羽ばたく歌姫を。 西谷尚雄さん
2000年からスタートし、11回目となる2010年は130組もの応募が集まった「神戸ジャズヴォーカルクィーンコンテスト」。厳しい予選から本選に勝ち進んだ歌姫たちは、誰がグランプリを受賞してもおかしくないほどの実力派揃い。彼女らの歌声を楽しみに、毎年本選会場では多くの観客で賑わいます。
今回は、そんな「神戸ジャズヴォーカルクィーンコンテスト」を含む神戸新開地音楽祭を企画・運営している新開地ミュージックストリート実行委員会委員長である音楽プロデューサーの西谷尚雄さんにお話をうかがいました。西谷さんが代表を務めるキーウエスト・オフィスは数多くのさまざまな音楽イベントを企画・プロデュースし、関西の音楽シーンの活性に尽力されています。
person
キーウエスト・オフィス代表 音楽プロデューサー
西谷尚雄さん
京都府出身。電通入社後、CMプランナー、クリエイティブ・ディレクターとして30年間で1000本のテレビCM企画制作に関与。電通クリエーティブ局室長などを勤め、定年退職後は関西をキーとして活動することを目的とした独立事務所「キーウエスト・オフィス」を設立。2000年から続く神戸市・新開地まちづくり事業「新開地ミュージック・ストリート」実行委員長および「神戸ジャズヴォーカルクィーンコンテスト」審査員。
interview
「街に元気を与えてくれるのはジャズ」。 ヴォーカルクィーンコンテスト誕生の秘密。
神戸ジャズヴォーカルクィーンコンテストの記念すべき第1回目が開催されたのは2000年。ミレニアムという大きな節目であり、1995年に起きた阪神・淡路大震災からちょうど5年という年でもありました。
神戸、新開地の街おこしの一環として始まったこのコンテスト、その誕生の裏側には1996年に西谷さんが上演した「虹のかなたに」というミュージカル・ドラマが大きく関わっています。
「阪神・淡路大震災で焼けた長田の街を見て、僕は『この光景は第二次世界大戦の焼け野原と同じだ』と感じました。第二次世界大戦のときは、焼け野原から自分たちが持っているものを糧に、人々は立ち上がろうとしました。その心の糧というのが『戦後復興のジャズ』。ジャズを心の糧として元気になっていったという物語を書いて、1996年に神戸で舞台を上演したんです。関西のジャズミュージシャンばかりを集めて。その模様は関西テレビで放映もされて、大阪のシアター・ドラマシティでも再演されました。
そのときの芝居を、現在、ジャズヴォーカルクィーンコンテストの企画を担当してくれている今井さんが観てくれていたんです。彼が2000年からスタートしようとしている新開地の街おこしイベントも、街に元気が出るような催しとして『ジャズ』でやったらどうかというアイデアが出たのが、新開地ミュージックストリートやジャズヴォーカルクィーンコンテストが生まれるきっかけになりました。
最初は『女性ジャズヴォーカルコンクール』とかいう硬い名前だったんですが、女性ヴォーカルと言わずに『クィーン』と言った方が素敵じゃないかと提案したんです。そこから今井さんが企画を進めていったんです」
「応募者の熱意に支えられている」。 権威あるコンテストを目指して。
応募者数は40組だったという第1回目から、毎年応募者数は増え続け、11回目の今年は130組からの応募が集まりました。現在では全国はもとより、海外からの応募も珍しくないんだとか。
全国に知れ渡るほどのコンクールに成長したジャズヴォーカルクィーンコンテスト、その成功の理由はなんだったのでしょうか。
「受賞して終わりではなく、せっかくだから神戸の姉妹都市であるシアトルで受賞記念ライブができたら面白いんじゃないかと。実際にシアトルまで行って、ジャズアレイというライブハウスを見つけることができました。
それから、コンクールというのは権威がないといけないと思うんです。だから審査委員長も、その業界のトップの人がいいということで服部克久さんにお願いしました。服部さんとは僕が電通にいた頃からの長い付き合いなので快く引き受けていただきました。
第1回目は40組という少ない応募でしたが、ジャネットさんという素敵なヴォーカルクィーンが誕生し、シアトルでのライブも大盛況に終わりました。予算が潤沢というわけでもないですし応募者数も少なかったので、最初は3回程で終わるんじゃないかと思ってたのですが(笑)、1、2回目の成功で続けていけるという確信が持てましたね。
我々主催の熱意ももちろんあるんですけども、やっぱりジャズヴォーカルをやっていきたいという人の熱意が一番の支えになっています。昔と比べて、今はジャズという音楽が大人のお洒落な音楽、憧れの音楽というイメージを持つ人が多くなっていて、そういうこともコンクールが続いてる原動力になってるんじゃないかなと思いますね」
「神戸ほどジャズが似合う土地はない」。 ヴォーカルクィーンコンテストのこれから。
年々応募者数が増えることによって、自ずとコンテストのレベルも上がってきたと西谷さんは言います。その結果、コンテストが権威となり、受賞者のビジネスチャンスに大きく寄与することもある反面、コンテストそのものがプロ仕様となって幅広い門戸が開けなくなるのではないかと危惧する部分もあるのだそうです。今後のジャズヴォーカルクィーンコンテストについてうかがいました。
「このコンテストでグランプリを受賞した人が、この受賞経験をバネに活躍していくのが一番嬉しいですね。昨年受賞したWhoopinさんも『受賞以前のこととそれ以後で比べると、夢じゃないかと思うくらいに全然違う。環境も変わったけれども、一番変わったのは自分の意識。あんなにたくさんの人のなかから、私は一番を取ったんだということが自信になった』とおっしゃっていて、委員としてはこれ以上ない喜びですよね。
ただ、年々レベルが上がっていってるので、どんどんプロに近づいていってるんですね。それは終いにコンテストがプロだけのものになってしまうということも考えられて、僕はそれをとっても心配しています。今年のグランプリのギラ・ジルカさんは本当に素晴らしかったけれども、彼女はもうプロで活躍している人だから、そういう人ばかりになってしまうのも考えもの。広く将来性のある人にチャンスを与え続けられるコンテストでありたいですね。
あと、『神戸ジャズ』というのを、日本における神戸のブランドにしていかないといけないなと。ジャズに地名を付けて似合うのは、やっぱり神戸なんですよ。ジャズが始まった場所でもあるわけですし」
「ジャズがないと生きていけないくらい好き」 西谷さんにとってジャズとは。
ジャズのみならず、クラシックからポップス、CMソングまで、音楽プロデューサーとして、これまで幅広い音楽に深く関わってきた西谷さん。子どもの頃から音楽が好きで、ご自身も趣味でバンド活動をされているのだそうです。そんな西谷さんにとって、ジャズはどんな存在なのでしょうか。
「いろんな音楽がありますけど、はっきり言ってジャズという音楽がなかったら、僕はちょっと生きていけないかもしれない(笑)。それぐらい好きです。子どもの頃はピアノ、大学時代はウクレレを弾いていました。ウクレレを持ってハワイアンバンドに入れてくれって言ったら、『お前はウクレレが一番似合わない』と言われて、そこからベースを弾きはじめました。それでハワイアンバンドのベースをやりつつも、やっぱりジャズが好きなものだから、しょっちゅうジャズバンドに乱入してましたね。進駐軍のキャンプにもベース弾きに行きましたよ。会社員になってからは弾くチャンスがなかなかありませんでしたが、電通を退職してからはジャズのトリオで今でもときどき演奏しています。
キーウエスト・オフィスは、私が『関西』をキーにして、関西で音楽をやっている人の力になりたいと始めた会社。だから、まさに神戸ジャズヴォーカルクィーンコンテストはキーウエスト・オフィスのコンセプトに合ったイベントなんです。これからもずっと続けていきたいですね」
特集「神戸ジャズ文化を彩る人々の魅力」 KOBE Jazz People