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クリスのワッツ・ジャズ?
VOL2.JAZZ三都物語 ~ニューオリンズ、 カンザスシティ、シカゴ。そしてニューヨークへ~


前回は、ニューオリンズでジャズの原型が生まれ、発展・進化しながらミシシッピ川を遡上していった…みたいなお話だったわけですが。今回はそれ以後のジャズについて。

そうそう、その頃にね、ニューオリンズからの流れと平行して、カンザスシティでも新しい音楽が生まれていたんです。これは、R&Bを取り込んだ形での新しいジャズ。ブルーズとジャズの歴史はかなり重なったり併走してるんですけどね、ニューオリンズスタイルとはまた違うスタイルが生まれていたんです。


ニューオリンズスタイルとどんなふうに違ったんですか?

まあカンタンに言うと、ニューオリンズスタイルは2ビート。カンザスシティのスタイルは4ビート。縦ノリでジャンプする感じの2ビートに比べ、4ビートは横ノリで、R&Bの影響もあって重い感じのスウィングといってもいいかなー。


でも当時は悪名高い(←呑み助の意見)禁酒法の時代ですよね?なんでまたカンザスシティでそんなにジャズが流行ったんでしょう?


それはねー、僕ももう名前を覚えてしまってるんですけどね、当時の市長で、トム・ペンダーガストっていう人がいて。いや、これがもうとんでもないヤツだったんです。

とんでもないって?

まあこの人が大の酒好き。禁酒法の時代でありながら、それをまったく無視したんですね(笑)


え、それってワシントン的にはオッケーだったんですか?

オッケーじゃありませんよ(爆笑)!カンザスシティは、よく言えば自由都市、悪く言えば無法地帯になっちゃったわけです。で、ニューオリンズがそうだったように、歓楽街というか、人やお酒が集まるところでジャズが生まれ、育ったわけなんですねー。


ははー、マジメで堅苦しい土地ではジャズの花は咲きにくいってことですねえ。そうして、カンザスシティのジャズがどんどん発展、人気のあるバンドやミュージシャンが出てくるわけですね。

そうなんですよー。
そして、当時の最先端だったジャズが目指すのはやっぱりニューヨーク。
ニューヨークに行けば演奏の場所や機会も多いし、ニューヨーク側でも、優れたミュージシャンを探すようになるんです。
つまり、ジャズはビジネスになるから。そんな流れの中で出てきたのがカウント・ベイシーや、デューク・エリントン、ルイ・アームストロングを引き抜いたフレッチャー・ヘンダーソンみたいなビッグバンド。彼らは主に、コットンクラブとかサブウェイ・ボールルームとか、お金持ちの白人が楽しむためのクラブで演奏してたんですね。

『客はみんな白人、従業員はみんな黒人』…みたいなカタチになるわけですねえ。

そうそう。当時はまだまだ人種差別が根強くありました。レイ・チャールズの映画でも、せっかく演奏に来たのに正面玄関から入れないことに怒ってそのまま演奏をキャンセルしたり、一時はジョージア州から追放されたなんてこともありました。ジャズの話じゃないけどね。


『ジョージア・オン・マイ・マインド』が、いまや州歌になってるってのはなんとも皮肉な話ですよねえ。人種差別といえば、ウーピー・ゴールドバーグが出てた映画で、市バスに乗らない運動みたいなのもありましたね。

そんな差別は、演奏する曲目にも影響があったんですよ。今でも名前が残ってるけどねー、出版社が集まったティン・パン・アレイという通りが出した、たくさんの楽譜。これはクラス別に分けられていて、A級の曲は、ベニー・グッドマンとかドリス・デイみたいに有名な人しか演奏できなかったなんてこともありました。はっきり言ってしょうもない曲が多いB級以下のクラスの曲じゃないとビリー・ホリデイとかは歌えなかったんですよ。まあ、それをなんとかおもしろくしようとした彼女の努力や工夫が、後のジャズ・ボーカルのスタイルになったんやから、これもずいぶん皮肉なハナシやねー。


ホンマですねえ。

まあ、そんなこんなでいろんなモンダイをはらみつつも、たーくさんのバンドがニューヨークに集結していたわけです。ところが、仕事がたくさんあっても、ダンスのBGM演奏だけではミュージシャン的には満足できないんですね、譜面があって、きっちりアレンジがしてあるような演奏では。仕事の演奏が終わった後で別の店に移動して、自分たちの楽しみのために自由に演奏するようになったのは前回の講義通り。きちんとアレンジされた譜面があるワケじゃないからそれぞれがアドリブで、同じ曲を朝までずっと演奏してるなんてコトもありました(笑)。おまけに朝には移動して、次の演奏場所に行かなきゃいけない。予定をスッポカしたり、汽車やバスに遅れる人もたくさんいたようです(笑)


ははは(笑)。かなりメチャクチャな時代だったんですね。前回の講義によると、そうこうしているうちに例の大恐慌が。


そうなんですねー。レコードが出せなくなっちゃった。ビッグバンドを維持することもできなくなって、転職するミュージシャンもたくさんいました。でもそこで思いついたのが仕事後の自由なセッション、これがニューヨークスタイルというか、モダンジャズの原型になっていったんです。『ビバップ』につながっていくんですねー。でも、レコードが出せない反面、ラジオの人気が出てきたんです。レコードを買って聴くにはオカネがかかるけど、機械さえあればラジオはタダですからね。


ははあ、そこで流れていたのがジャズだった、と。

そうそう。お金持ちは(多くは白人ですが)ライブでジャズを聴き、大衆はその演奏を電波で聴くようになりました。そして、ラジオの影響でジャズはもっともポピュラーな音楽、最先端の人気音楽になるんですね。20年代から30年代、だんだん景気がよくなってきたときには、すでに人気を不動のものにしていたんです。ラジオによって、みんなが啓蒙されちゃったと言っていいかもしれませんね。


なるほどー、ラジオの影響で、たくさんの人がジャズを聴けるようになって、ジャズファンが定着したわけですね!ありがとうございました!


第2回の講義はこれで終了。でも、つい人権問題の横道に話がそれてしまって講義を迷走させてしまいました。「もっと早く話を進めんかい!!」という読者の方、ゴメンナサイm(_ _)m。

ところで、恒例の講義の余談ですが…、前からギモンだったんですよ、「なんであの時代、ジャズミュージシャンとドラッグがくっついちゃったのか??」ってのが。これも、モダンジャズが生まれた状況と深い関係があったんですねえ。

仕事の後で、それぞれに集まってセッションをしていた…ということ。次の朝には移動のために早起きしなくちゃいけないんだけど面白いもんだから一晩中演奏している。楽しみのための演奏とはいっても、その場ではバンドの同僚もライバル。常に今の自分を越えるアイデアを見つけなければ、他のミュージシャンに追い越されてしまう。肉体的にも精神的にもかなりキツい状況ですよねえ。
クリス先生によると、その緊張感や疲労を越えるために、ドラッグを使うミュージシャンも増えたんだそうだ。もちろん、今ほどドラッグが「悪いモノ」とは認識されていなかったってこともあるんでしょうけどね。
でも、とーってもナルホド!だったんですよ。

ジャズの黎明期から黄金時代のミュージシャンたちは、ある意味、とても享楽的に見える。でもその一方で、自分の才能とか創造の暗い深淵を覗かざるをえなかったんでしょうねえ。その影の部分があればこそ、ジャズは輝いたのかもしれないなあ…なんて思った第2回の講義でありました。 次回もお楽しみに!!




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