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ジャズピープル

ジャズで大西洋に壮大な橋をかける

フランスの知名度を捨てて33歳でニューヨークに渡り、ゼロから再出発したフランソワ•ムータン。現在ヨーロッパとアメリカの両大陸で活躍する彼が、外国人ジャズアーティストとしてニューヨークで成功するまでの軌跡をノウハウを含めて熱く語ってくれました。2019年2-3月にはボーカリスト、カヴィタ•シャーとデュオ日本ツアーを予定しています。

アーティストインタビュー by マグワイア由紀子

person

François Moutin (フランソワ•ムータン)

1961年12月24日、フランス、パリで一卵性の双子として生まれる。芸術に造詣の深い写真家で雑誌編集者の両親のもと、幼い頃からジャズを聴いて育つ。物心ついた頃からギターに触り、10歳でレイ•ブラウンの生演奏を見てベース奏者になることを決意。独学でベースを覚え、大学卒業後、ドラマーの双子の兄弟ルイとデビュー。ずば抜けた感性と音楽性でたちまち引っ張りだことなる。20代でフランスジャズの巨匠、マーシャル•ソラルのベース奏者に抜擢され、世界ツアーに参加。共演したアメリカの有名アーティスト多数からアメリカ移住を勧められて33歳でニューヨークに進出。2005年、フランスのジャズアーティストに与えられる最高の賞、ジャンゴ•ラインハルト賞を受賞。普段はパリの双子の兄弟共々サイドマンとして活躍するが、数ヶ月に一度はどちらかが大西洋を渡ってムータン兄弟として一緒に活動する。たゆまぬ努力を惜しまず双子の兄弟とジャズで大西洋に壮大な橋をかけるストーリーが現在進行中だ。

WEB


interview

音楽は、あるのが当たり前

── 音楽に関わることになったきっかけは何ですか?

ムータン家には常に音楽が流れていました。双子の兄弟のルイと私にとって音楽は、あるのが当たり前で、エキサイティングでした。6歳から両親に連れられて世界的なミュージシャンの生演奏を見て育ちました。そんな環境で、ミュージシャンになることはごく自然なことでした。

── 6歳からジャズクラブとは面白いご家庭ですね。ご家族には音楽家もいらっしゃったのですか?

はい、とてもユニークな家庭でした。父のジャック•ムータンは、1950年代の人気ファッション月刊誌「ル•ジャルダン•ド•モード」の芸術監督でした。当時のファッション写真は洋服を着たモデルがポーズをとるのが一般的でしたが、彼は、初めてファッションを普段の生活シーンに取り込んだ斬新な写真を撮って注目を浴び、雑誌を改革しました。彼の下には、ヘルムート•ニュートンなど才能ある若手写真家が集まりました。彼は1956年に「ジュニアファッション」のコンセプトを打ち出し、大人のものでしかなかったファッションをジュニア世代に広げました。1960年代には雑誌「マリー•クレール (Marie Claire)」、「マリー•フランス(Marie France)」も手がけ、その後、広告業界に転職して、ブランド全国キャンペーンを手がけました。
母のジャクリーンと父は職場結婚でした。「ジュニアファッション」キャンペーンに貢献し、60-80年代はファッション写真家として活躍しました。
両親の趣味は、ダンス、芸術、文学と音楽。とりわけ音楽が好きでした。
1920年生まれの父のレコードコレクションは膨大で、ジャズは初期から集めました。人気アーティストのコンサートにはことごとく足を運びました。父方の祖母は、パリの音楽院卒ピアニスト。父は、楽器は触らないもののダンスが上手でした。母は、独学でピアノとギターを弾きこなし、母方の祖父も独学でピアノを弾きました。

── いつ頃楽器演奏に目覚めたのですか?

5歳くらいから、双子の兄弟でルイ•アームストロングなどかっこいいアーティストの真似をして楽器を演奏するようになりました。ルイが何でも手当たり次第に叩くパーカッションとピアノ担当で、私はギター担当です。7歳の時、両親がルイにドラムセットを買い、早速ギター&ドラムデュオを結成しました。8歳でエロル•ガーナーに目覚め、9歳でオスカー•ピーターソンに目覚めました。10歳の時、父にせがんでオスカー•ピーターソンのパリ公演に行き、衝撃を受けました。
この頃、ジャズに興味があったり、ましてや一緒に演奏できる小学生など周りに皆無でした。私たちは幼い頃から二人だけでジャズへの情熱を燃やしました。早い時期から他の子と違うことに気づいたことが自分のアイデンティティを見つけるプロセスにつながったかもしれません。

── ベースを選んだきっかけは何ですか?

10歳の時、パリにジャズ•アット•ザ•フィルハーモニックがやってきました。ピアノはオスカー•ピーターソン、ベースはレイ•ブラウン。最前列でレイ•ブラウンの演奏に圧倒され、私はベース奏者になると心に決めました。12歳の誕生日のプレゼントはエレキベースで、それ以降毎日ベースを弾くのが楽しくて仕方ありません。ベース奏者になると決めて12年後、パリの楽器店でアップライトベースを買いました。その日家で弦をはじくと、自分はこのために生まれてきたのがわかりました。

── 独学でジャズを勉強されたそうですが、どのようにしてジャズを学びましたか?

ドラマーのルイも私も独学です。 母も祖父も独学でピアノが弾けたので、特にレッスンしませんでした。両親は、私たちが7歳頃、音楽の特別な才能に気づいたようです。9歳で転校した学校で音楽個人レッスンを受けました。ルイはピアノ、私はギターです。しかし、ピアノレッスンはあまりにつまらなくてルイは一回でやめてしまいました。一方、ギターのシザール先生は最高でした。基礎をさらりとやって、何か演奏してごらんというので、ジャンゴ•ラインハルトのマイナー•スウィングを演奏しました。すると先生はにっこり笑って一緒に演奏し、その後、ルイも参加してジャズを演奏しました。先生は、個人レッスンカリキュラムにはジャズがないのでレッスンはできないが、その代わり、毎週一回、3人でジャムセッションをやろうと提案しました。私たちは3年後に先生が辞めるまで毎週セッションをしました。
彼以外の音楽教師は、自宅のレコード、そして見たり、共演した素晴らしいミュージシャンの一人一人です。色々な人の演奏を実際に見て、真似して覚えたのが私の演奏方法なのです。

ミュージシャンであることは決して簡単ではなく、常に努力が必要

── いつごろ、どのようにして演奏の仕事ができるようになったのですか?

21歳の1983年、パリのデュノア劇場勝ち抜きバンドコンテストで決勝戦に残り、秋から定期的に演奏できることになりました。その後、現在も一緒に活動するジャン•ミッシェル•ピルク(p)と組んだバンドがパリ現代美術館ジャズコンテストで2位になりました。それが評判を呼び、色々な人と共演できるようになりました。
1986年の春、ミュージシャンの誕生会ジャムセッションで、憧れのアントワーヌ•エルヴェ(p)とセッションしました。約1ヶ月後、アントワーヌが国立ジャズオーケストラの音楽監督になり、なんと、私を翌年1月からのベーシストに抜擢してくれたのです!それからルーク•ル•マスネのアルバムレコーディングプロジェクトで私とルイがドラムとベースに抜擢されました。プロとして初のレコーディングでした。世界的に有名な指揮者、ローラン•プティジラールの指揮で36人のジャズやクラシックの精鋭ミュージシャンが演奏する非常にチャレンジングなプロジェクトでした。やり終えると、私たちの演奏を色々な人が褒めてくれました。これをきっかけに仕事の依頼が来るようになりました。

── あなたは、大学で博士号まで取得しています。音楽の道を選んだ時、ご両親はなんとおっしゃいましたか?

両親は、「自分の人生は自分で決めるべきだ。そして決めたことに責任を持つことが大切だ。」と言っていました。
母は、音楽家になったら困窮した生活をするのではないかと心配していました。一方、父は、私たちが夢として追ってきたことをトライしなければ、一生後悔して生きることを理解し、私たちの才能と努力を認め、音楽家としてやっていけると信じていました。大学の勉強はそのまま社会で使うことはなくとも、後の生活に活かせます。ミュージシャンであることは決して簡単ではなく、常に努力が必要です。それはどんな職業でも同じです。私は大学で勉強をしたからこそ、今の自分があると感じています。

── 双子の兄弟にテレパシーを感じますか?

不思議ですが、私たちは離れていても同時に同じことを考えることが多いのです。例えば、大学卒業後音楽を選んだ時、相談しないのに二人ともパートで高校の数学や物理教師をしたことなどです。似たエピソードは数え切れません。演奏でもお互いが思っていた通りの音をタイミングよく出しあうことがよくあります。しかし、これは双子で同じ環境で育ったせいかもしれないので「テレパシー」と呼べるかどうかわかりません。もともと即興音楽のジャズは共演者同士の感を頼りに演奏する音楽ですから、ジャズ自体にテレパシーが存在するのかもしれません。

── ミュージシャンとして一番辛かったことは何ですか?どうやって克服しましたか?

1986年、私は国立ジャズオーケストラのベース奏者に選ばれたものの、後で外されてがっかりしました。理由は有名ドラマーが自分のお気に入りのベース奏者を選んだからです。音楽監督から連絡があり、今回は残念だったと言われました。理由はわかっても落ち込み、その晩は家で涙が止まりませんでした。
とはいえ、学生時代は自転車と短距離走の選手で、大学で猛勉強もしました。何日かは落ち込んでも、だんだんファイティングスピリッツが湧き上がってきました。よく考えれば、一度でも私がベース奏者に選ばれたことは才能が認められたことなのです。努力を重ねていればまたチャンスがやってくると前向きに思えるようになりました。
そうすると、また運が向いてきて活動が増え、1987年には初アルバムをレコーディングしました。カバーデザインは両親が担当しました。ただ、父がアルバム完成前に心臓発作で亡くなったのは残念でした。1988年1月のアルバムリリースイベントには多くの人が来て、素晴らしいレビューもたくさんもらい、父も喜んでくれたと思います。

マーシャルが「とって食べたりなどしないから安心しなさい!」

── 一番思い出深いパフォーマンスについて教えてください。

アルバムリリース直後に、国立ジャズオーケストラ音楽監督のアントワーヌと結婚披露宴で一緒に演奏しました。実はそれがオーディションで、その翌日、私にベースポジションのオファーがありました。私は大喜びで一度はダメだったオーケストラの一員となりました。まもなくパリの有名な2000人収容音楽ホール、ル•カジノ•ド•パリで15日間連続のコンサートシリーズがありました。ゲストはアメリカから来る有名ジャズミュージシャン多数。ランディ•ブレッカーなど錚々たるメンバーに加え、ドラマーは、憧れのピーター•アースキンです。彼のすぐとなりで演奏できて私には夢以上の時間でした。リハーサルも本番も、全てに圧倒され、多くを学びました。終わると多くの人が私の演奏を褒めてくれました。ピーターとランディからはアメリカ行きを強く勧められ、サポートすると何度も言われて心が動きました。

── 巨匠マーシャル•ソラルとの出会いについて教えてください。

1987年、フランスジャズ界の巨匠ピアニスト、マーシャル•ソラルの唯一の弟子で、評判のピアニスト、マニュエル•ロシュマンから声がかかりました。彼は素晴らしい技巧とキレに加えて、中から滲み出る力強さと豊かな感情表現を兼ね備えたピアニストです。その翌年、マニュエルと演奏していると、マーシャルがやってきました。気さくに話しかけてくれ、私の演奏を褒めてくれました。その1ヶ月後、エージェントから連絡があり、マーシャルがブルガリア公演のベース奏者を探しているのでリハーサルに来るようにと言われました。私はマーシャルの家に行きましたが、緊張でコチコチです。マーシャルが「とって食べたりなどしないから安心しなさい!」と言い、それがきっかけで笑いが起き、リラックスして演奏ができました。数日後、マーシャルが私を気に入ったと連絡があり、私はなんと27歳で巨匠、マーシャル•ソラル•トリオの一員になったのです!数年後ドラマーがルイに変わり、このトリオは20年以上続いています。

── マーシャル•ソラルと演奏してどうでしたか?

マーシャルとの出会いは、世界へのドアを開けてくれました。
マーシャルは、ジャズだけでなくクラシックも含めた音楽界のレジェンドです。彼は、創造的な精神と抜きん出た演奏技術で演奏家、作曲家としてフランスだけでなく世界中で尊敬される人物でした。そんな人のトリオに参加するのは、ベース奏者として承認されることでした。
まずブルガリア公演があり、トリオは、演奏中ずっと限界のない広がりの中で非常にタイトな演奏をしました。それはある種のトランス状態のような凝縮した時間でした。私は、限界に挑戦させられ続けました。終わると、マーシャルはとても良かったと喜んでくれました。
彼は、ヨーロッパ各国のメジャーなジャズフェスティバルのメーンステージで演奏するチャンスをたくさんくれました。観客1万人以上のフェスティバルに出た時は背筋がゾクゾクしました。
私は1995年にニューヨークに移住しましたが、その後もマーシャルのトリオで演奏を続け、2000年にはヴィレッジ•ヴァンガード、2002年にはジャズ•アット•リンカーンセンターというジャズの最高峰の場所で演奏することができ、ベース奏者としてアメリカのジャズ界で認識されるようになりました。

アメリカへ

── フランスを離れてアメリカで生活することにしたのはどうしてですか?

マーシャルと世界をツアーするうちに色々な気づきがありました。
まず、彼ほど世界で活躍するフランス人アーティストは、他にいないことに気づきました。彼のサイドマンとしてヨーロッパのメジャーなジャズフェスティバルに出演して各国のミュージシャンと交流してわかったことは、アメリカのメジャーアーティストがたくさんヨーロッパにやってくるのに、ヨーロッパのアーティストは素晴らしい技能があるのにも関わらず、アメリカどころか、自国以外で活動することがほとんどないことです。
それから、サイドマンとしてメジャーアーティストに同行すると最高の場所での演奏が約束されますが、リーダーとなると状況は全く別です。私は、目立つサックスやピアノなどのメロディー演奏楽器でなく、ベースという地味な伴奏楽器の奏者なので不利なのです。
同時に、フランスのジャズという芸術に対する価値観や新旧の考え方の確執に違和感を感じ、自分に変化の必要性を感じるようになりました。そして私は、アメリカへ渡ることを考えるようになりました。

── 双子の兄弟と海を隔てて離れることはどんなことでしたか?

アメリカへ渡ると決める時、一番難しかったことは、双子のルイと一緒に行けないことでした。当時、私たちは33歳。ルイは、幸せな結婚をした3児の父で先の見えない冒険に誘うわけにはいきません。しかし、私は、今やらないと二度とできないような気がしました。
ルイと私は、何度も話し合いました。一緒に活動できなくなるのは悲しいことでしたが、お互いに依存して成長を妨げていることを感じていたので、この別離をチャンスと捉えました。私は、ルイと時々一緒に演奏できるよう、共演者のマーシャル•ソラルなどにニューヨークに行っても時々ヨーロッパに戻って一緒に演奏したいと伝えました。
あれから20年以上たち、私たちは、時々一緒にツアーできるようになりました。私たちはそれぞれの場所で活動し、ネットワークを広げ、つなげてきました。現在は、数ヶ月に一回どちらかが大西洋を超え、一緒に演奏をしています。

── ジャムセッションとホームセッションについて教えてください。

ニューヨークに着くなり、あちこちのジャズクラブのジャムセッションに通いました。特にスモールズの真夜中から朝までのジャムセッションには我こそはと思う新人や、若手の様子を見にくるベテランミュージシャンがきます。私は、有力新人のロイ•ハーグローブ、JDアレン、アヴィシャイ•コーエンなどにそこで出会いました。パリと違って様々なスタイルのジャズが演奏され、皆しっかり聴いているのがとても新鮮でした。
そして、ニューヨークには、ホームセッションがあります。ミュージシャンの多くは自宅にピアノかキーボードとドラムセットを用意してセッションができるようにしています。それは大体午後にあり、新人を見つけたいベテランアーティストと出会うチャンスです。まずジャズクラブのジャムセッションで気に入られればホームセッションに誘われるようになります。私は、2週間通ったら連日ホームセッションに招待され、それが演奏のチャンスにつながりました。

── 住む場所はどうしましたか?

友人のフランス人ピアニスト、フランク•アムサレムがニューヨーク在住で色々と世話をしてくれました。ツアー中のミュージシャンが安くアパートを借してくれることを教えてもらい、色々なミュージシャンのアパートや安ホテルを転々としました。2ヶ月半遊牧民生活をした後、借りたアパートの家主さんは、ダン•ドイルという15年程の経験があるアーティスト•マネージャーで、ロードマネージャーやプロデューサーもしていました。この人は10年ほど後にニューヨークでムータン•リユニオン•カルテットの演奏を気に入ってアメリカツアーができるようにしてくれました。

── アメリカの居住ビザはどう取得しましたか?

外国人がアメリカに住むには居住ビザまたはグリーンカード(永住ビザ)が必要です。私は、弁護士を雇い、「特殊技能移民」としてグリーンカードを申請しました。自分の国際版プレスキットに、ランディ•ブレッカーなどたくさん有名アーティストの推薦状をつけて申請しました。ところが、この弁護士が曲者で、申請費用を2度請求するつもりで最初の申請が却下されるよう仕組んでいたのです。当然申請は却下。自分でも申請できると知ったのはその後でした。却下された時はフランスに帰らなければならず、戻ってきた時も入国ができずにJFKの飛行場で24時間心細く過ごしました。申請が通るまで約6ヶ月かかりました。その後自分で申請しなおすと15日でグリーンカード取得ができました。

数学や物理学を勉強するのが趣味

── アメリカでの音楽活動はどうでしたか?

まず大学時代からのバンド仲間で先にアメリカに移住したジャン•ミッシェル•ピルクとトリオで活動を始めました。それからルドレッシュ•マハンサッパなどのバンドに参加しました。その後マイク•スターンのニューヨークライブのベース奏者にもなり、時々マーシャル•ソラルや他のヨーロッパのアーティストとツアーしてサイドマンとしてそれなりに順調なスタートを切りました。

── ムータン兄弟リーダーバンドについて教えてください。

アメリカに来て4年半後、ルイが電話で新曲のメロディーを歌ったことがきっかけで、フランスでムータン•リユニオン•カルテットを結成し、レコーディング後ヨーロッパのメジャーなジャズフェスティバルに出演しました。その後アメリカで同じアルバムをリリースし、アメリカツアーをしました。
ムータン兄弟ブランドは、アメリカで名を知られたおかげで、ヨーロッパ各国のメジャーなフェスティバルに出演できました。私たちが身をもって学んだことは、アーティストがヨーロッパ内の国境を越えて活動するためにはまず大西洋を越えなければならないということです。ルイと私はこの戦略のもと、アメリカとヨーロッパの二つの大陸で8枚のアルバムをリリースし、2013年まではムータン•リユニオン•カルテット、2013年以降はムータン•ファクトリー•クインテットとして両大陸で16年間に26回のアメリカツアーを行いました。私たちの活動の軌跡は、双子の兄弟がヨーロッパとアメリカに分かれて住み、ジャズで大西洋に橋をかけたというユニークなストーリーなのです。

── 音楽以外の趣味はありますか?

数学や物理学を勉強するのが趣味です。時々頭を使うとすっきりします。子供の頃から絵を描くことも好きです。

── 今後はどんなことをしたいですか?

できるだけたくさん美しくて意味のある音楽を作曲して演奏していきたいと思います。

── 今後のレコーディングプロジェクトはありますか?

2018年9月にムータン兄弟リーダーのアルバムが2019年にリリース予定です。サイドマンでは、フランス人ドラマーのラファエル•パニエと5月にレコーディング予定です。

若いミュージシャンの皆さんへ

── ミュージシャンとして成功するためには何が必要だと思いますか?

才能、情熱、強い意志と忍耐力、謙虚さ、運です。そして時には手放す能力も必要です。

── 若いミュージシャンの皆さんへアドバイスをお願いします。

自分の耳で聴くこと、そして自分の好みを大切にして良い音楽をできるだけたくさん聴いてください。クラシック音楽は全時代のものを、ジャズは1920年代から現在までジャズマスターと言われる人の作品をできる限りたくさん聴きましょう。ブラジル、アルゼンチン、キューバの音楽、60年代から70年代のロック、ポップ、ランク、レゲエ、ケルト音楽、そしてアフリカ、中東、インドや伝統的な東ヨーロッパの音楽も幅広く吸収してください。全てを好きになる必要はありませんが、広く可能性を探ることで音楽のボキャブラリーが増えると、自分の中の選択肢が広がってよりよい演奏ができるようになるのです。

── レコーディングの時はどんなことに気をつけますか?

音楽はそれ自体が訴えるものです。ですから、レコーディングの時はあまり余計なことを考えないようにしています。受け手のリスナーが想像力を駆使して、何かを感じられる良い音楽を作ることに専念しています。

── 日本の何が好きですか?

ファッションでは三宅一世。食べ物では、味噌汁、天ぷら、すき焼き、刺身、寿司が好きです。フランス人にとっては、日本はかっこいい国なのです。

── 今年は日本ツアーもあるそうですね。今まで日本に何度いかれましたか?

日本は1991年9月にミシェル•ポータル•ユニットで1ヶ月ツアーしたのが初めてです。1999年にまたミシェルと行き、2003年にはジャン•ミシェル•ピルク•トリオで行きました。2010年にマンハッタン•ジャズ•クインテット日本ツアーに参加しました。今年久々に日本に行きます。2月21日 - 3月4日にボーカリストのカヴィタ•シャー(Kavita Shah)とデュオでツアー予定です。神戸にも行きます。日本の皆さんにお会いできるのがとても楽しみです!

information

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Interplay インタープレイ



[ Release ]

François Moutin & Kavita Shah Duo - INTERPLAY
ボーカリスト、カヴィタ•シャー(Kavita Shah)とのデュオアルバム

フランス人ベースの先駆者、フランソワ・ムータンとニューヨーク生まれでハーバード大卒の冒険好きなボーカリスト、カビタ・シャーのデュオアルバム、「インタープレイ」。ジャズスタンダードとオリジナル11曲を収録したこのアルバムは、フランスの巨匠ジャズピアニスト、マーシャル•ソラルや、全米芸術基金賞受賞ボーカリストのシーア•ジョーダンなど豪華メンバーがゲスト参加。二人は歌詞つきと歌詞なしの曲を織り交ぜて独自の即興の世界にリスナーをいざなう。

収録曲
1.You Go To My Head
2.La Vie En Rose
3.Coming Yesterday (feat. Martial Solal)
4.Bliss
5.Falling In Love (feat. Sheila Jordan)
6.Aigue Marine (feat. Martial Solal)
7.Blah Blah
8.Utopian Vision
9.Interplay
10.The Provider’s Gone
11.Peace (feat. Shell Jordan)

[ Live Information ]

日本ツアー (2019年2月22日ー3月4日)
2月22日(金)新宿ピットイン (東京都新宿)詳細
2月23日(土)Throbber (千葉県松戸市) 詳細
2月24日(日)武蔵野スイングホール (東京都武蔵野市、午後3時より)詳細
2月25日(月)Le Club Jazz (京都府京都市) 詳細
2月26日(火)神戸100BANホール (兵庫県神戸市)詳細
2月27日(水)Lifetime (静岡県静岡市)詳細
2月28日(木)Star Eyes (愛知県名古屋市)詳細
3月1日 (金)Body & Soul (東京都南青山)詳細
3月3日 (日)FROG (茨城県つくば市)詳細