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LazyDad
第六回[男のロマン。そしてこれから。]
「Kobe Jazz Boatのこと」。 ページトップへ
 アメリカから帰ってきて神戸の放送局、SUNテレビが新しい番組を作った。僕は司会としてレギュラーの仕事を貰ったので、東京から神戸に戻ってきた。やはり生まれ育った街は落ち着く。それ以後、僕は現在にいたるまでずっと神戸に住んでいる。
 テレビ開局時代から仕事を始めて今まで、本当にいろいろな仕事をしてきた。そのなかでも印象に残っているのは85年からスタートしたKobe Jazz Boatだ。
 長男の真がカーネギーホールで演奏するというので、ニューヨークまで一緒に僕らも観に行った。その翌日、ボストンを流れる大きな川から出ている二隻のジャズボートに皆で乗ったのがヒントになった。ジャズボートはとても面白くて、なんとか神戸でもジャズボートを実現できないかと考えたのだ。
 日本に戻ってきて僕は早速、借りられる船を探した。琵琶湖までミシガンを見に行ったこともあるが、やっぱり神戸で開催したいと思い、港めぐり用の船「すずかけ」を借りて開催した。定員250名のところ申し込みが400名も殺到してイベントは大当たり。正直なところ「こんなラクなイベントはほかにない!」と思ったものだ。
 それでもう少し大きな船にしようということで、二回目からは淡路フェリーの「やえしお丸」という定員400名のボートを借りた。それからずっと淡路フェリーにお世話になっていたのだけれど、8回目を迎える頃に僕は1オクターブジャンプして、もう少し大きな船でやってみたいと考えるようになっていた。ひょんなことから、僕のその想いは壮大な夢の実現を叶えるという男の一大ロマン物語へとなっていく。



「三日で7200万円になります」。 ページトップへ

 Jazz Boat7回目を終えた頃、ちょうど実家では親父の遺品整理を行っている真っ最中だった。兄が「こんな写真もういらんよな」と言って見せてくれた写真が、なんと親父が秩父丸という日本郵船の船でアメリカから帰ってくるときの資料だったのである。親父が撮った一等船室や食堂のきれいな写真、それとファーストクラスのディナーのメニューなどなど。僕はこれを見て閃いた。そうだ、日本郵船の船を借りようと。
 そしてある日、僕は神戸のステーキハウス「みやす」で、オーナーに「こんな資料出てきてんけど、日本郵船の支店長にツテとかないかな?」と訊ねた。するとビックリすることに、僕が帰ったその10分後に支店長が来たのだ。僕はこれはもう親父が絶対「日本郵船でやれ」と言っているのだと確信した。
 

最初は僕が音楽をやることを反対していた親父(小曽根真造)。しかし、ハモンドを手に入れたのも「飛鳥」を借りることができたのも親父のおかげだと僕は思っている。

 そのとき支店長の石川さんが言ったのは、「クリスタルハーモニー」という船(今は世界一周クルーズで有名な「飛鳥Ⅱ」として就航中)だったのだが、あれは定員が800名ほどで僕の手には負えそうもなかった。するともう少し小さい「飛鳥」が一年後に就航すると教えてくれた。それで僕は15回目のJazz Boatは絶対「飛鳥」でやろうと心に決めたのだった。
 それからの僕の行動は早かった。まだ船ができていないにも関わらず、丸の内にある日本郵船本社まで3度足を運んだのだ。本社に行くと、7人の重役が出てきてきた。僕は意を決して、「この船でジャズボートをやりたいんです。貸してくれませんか?」と言った。「法人ですか」と聞かれ、個人ですと答えるとその場の全員の目が点になったようだ。「一晩で2400万円かかりますよ。何日間ですか?」と聞かれたので「鹿児島ぐらいまで行って戻ってくるという計算で二泊ぐらいですかね」と言うと、「それでは三日で7200万円になります」。高いにも程がある。とりあえず一度帰って考えてみると答えてその場を辞したが、僕の心は既に決まっていた。




「日本一の大馬鹿野郎や」。 ページトップへ

 僕が帰った後、日本郵船では「あいつは何者や」となったようだ。すると、これまた驚くべきことに、なんと重役の中に須磨寺の和尚さんの親戚がいた。岩松さんという人だ。その岩松さんが「あれは須磨の小曽根や。貸しても問題ない」と言ってくれたので、話がスムーズに通ったのだと思う。これまでにも何度か書いたけれど、僕の家は神戸では名前が知れている。岩松さんに感謝すると同時に、この偶然の重なりはやっぱり親父が作ってくれたものではないかと思えて、僕はより一層「飛鳥」を借りる決意を固めた。
 とはいえ、リスクが大きいから日本郵船の新村常務にも止められた覚えがある。それを言うためだけにわざわざ神戸まで来てくれたのだから、その気持ちは骨身に沁みるものだった。しかし、僕の後ろでは親父が「やれ」と言っているのだからやるしかないのだ。そうして3度目の訪問を経て、僕は無事「飛鳥」を借りることができた。
 前代未聞のイベントだったので、郵船も僕もノウハウが分からず準備は大変だったが、神戸港を離れたときの出港の汽笛の音は一生忘れそうにない。涙が出るほど感動した。息子には「日本一の大馬鹿野郎や」と言われたけれど、これが男のロマンなのだと僕は自分に言い聞かせた。

M.S.ASUKA 神戸グレート・ジャズ・クルーズにて。 1994年9月3日~5日

そして、息子も僕にそんなことを言いながら自分のバンドNo Name Horsesのメンバー全員を自費でニューヨークに連れて行った。真には間違いなく僕と同じ血が流れていると思う。



「ピアニストとして、大事なこと」。 ページトップへ

 結局、「飛鳥」でJazz Boatをやったのは93年と94年の二回。その後に阪神・淡路大震災が起きてしまったせいだ。「飛鳥」の二回は、両方ともリスクがあったけれど、僕はちっとも後悔していない。今年の10月には「飛鳥Ⅱ」の中で三日間ピアノを弾くことになっているし、日本郵船とはいいお付き合いが今でも続いている。
 神戸っ子の僕は海が大好きなので、これからも海や船からは離れられないと思う。Jazz Boatは船を替えて、今も続いている。今は「コンチェルト」で開催しているけれど、あれはあれで満員のお客さんのなかで演奏できる幸せがある。
 こんなふうに僕はいろんな冒険をしてきたし、これからも面白いと思うことはどんどんやっていきたいと思う。一つだけ変わらないのは、一人でも僕の演奏に耳を傾けてる人がいれば僕はその人のために心をこめてピアノを弾くということだ。僕が今もお客さんに恵まれているのは、僕とお客さんが両思いだからだと思う。
 余談だけど、賑やかなライブハウスで自分の音を聴かせたいときは、ピアニシモで演奏すること。そうするとお客さんは自分の声が目立つので声を落とす。そうすると後は自然に演奏を聴いてくれるようになる。そういう小技も僕は生徒に教えてはいるが、同時に「聴いてないと思っても、演奏に耳が向いている人は絶対いる。その人のために演奏をしなさい。その人とは一瞬でも赤い糸で繋がってるんだよ」ということも伝えている。




「アナゴもオナゴも大好きや!」。 ページトップへ

 比較的最近の仕事で言うとNHKの「もっともっと関西」の仕事が嬉しかった。最初に話がきたのは、70歳すぎてから。メインのMCである濱ちゃんこと濱中博久アナウンサーがジャズ好きということで僕にお誘いがきたのだ。70過ぎてからテレビにレギュラー出演したオルガニストはまずいないだろう。これはちょっとした僕の自慢でもある。
 心に残ってるのは、僕の初出演のときにオルガンを聴きにスタジオが満員になるぐらいの人が見学に来てくれたこと。最近の若いNHKの人たちはアナログであるハモンドの真空管の音を知らないのだという。よく考えたら、テレビはデジタル放送に移行しつつあって、僕は時代に逆行しているのだ。デジタル化の波が押し寄せるNHKで、僕は「アナログや」と大きな声で話していたのは、今考えるとちょっとした反逆児のようで面白い。
 また、こんなこともあった。濱ちゃんに「小曽根パパは民放が長いから気にしたことないやろうけど、NHKでは言葉に気をつけてな」と忠告された。その直後の番組でアナゴ料理のレシピを紹介しているときに、濱ちゃんが「小曽根パパはアナゴは好きですか?」と聞いてきたので、僕は思わず「アナゴもオナゴも大好きや!」と思わず言ってしまった。もちろん言葉的には問題なし、おそらくスタッフはひやっとしたに違いない。でもあれは二年間の間で一番のヒット発言だったと思う。


 そんなこんなで「もっともっと関西」でも僕はハモンドを弾き続け、もちろん今もハモンドを弾いている。今の時代、デジタル中心と言われているけれど、ジャズやクラシックのコンサートでは完全にアナログが圧勝している。テレビも楽しいけれど、音を楽しめるのは生のコンサートが一番だ。
 ハモンドやピアノの音色の美しさは何と言っても生が一番だし、お客さんと直接触れ合えるのも楽しい。74年生きてきたけれど、これからも僕は皆さんと一緒にジャズを楽しんでいきたい。僕のエッセイは今回で最終回だけれど、次は一緒に生のジャズの楽しさを分かち合えたら嬉しい。コンサート会場でお会いできる日を楽しみにしています。では、またお会いする日まで。


小曽根実




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