Minoru OzoneMinoru Ozone レイジー・ダッド インデックスへ
LazyDad
第五回[思い出のアメリカ旅行。]
「20分あげるから練習してよ」。 ページトップへ
 「11PM」のレギュラーの前後にもいろんな番組に出演した。なかでも記憶に残ってるのは、NHK大阪で斎藤超さんの編曲で土田啓四郎さん、十川千江子さんと僕の三台のハモンドオルガンで演奏したことだ。当日、20分前にスタジオ入りしたら、120人ほどのオーケストラがずらーっと並んでおり、他の出演者もほとんどがクラシック畑の人たちばかり。そのなかで、めちゃくちゃ耳のいい荒牧さんというプロデューサーが、「譜面が難しそうだから、20分あげる。練習してよ」と言ってきた。恐る恐る見てみると、まるで勧進帳のような長さの譜面、しかも16小節ほどあるソロパートには電線に止まったスズメのように音符がずらっと並んでいる。さらにそのうえ、C♯マイナー(♯4つ!)でサンバアレンジだ。ピアノをやっている人なら分かるだろう。僕は前にも書いたように譜面にはやや弱い。楽譜を見た途端、悪い汗がぶわっと吹き出し、背筋が凍るのを感じた。
 20分なんて時間はあってないに等しい。弾いてる時間なんかない。その間、皆が見てるなか僕は必死に指の動きを覚えた。そしてリハーサルが始まった。斎藤さんは普段銀縁メガネをかけているのだけど、間違えると目だけをこっちに向ける。それだけで怒ってるということが充分分かった。ちゃんと弾けたかは覚えてないけど、何かは弾いた。このときが僕のハモンド人生で一番焦ったときだ。
 ほかにもフランク永井さん、フランキー堺さん、淡谷のり子さん、由美かおるさん、田谷力三さんなどいろんな人の伴奏も経験した。



ケニー・バレルが「ノー!」。 ページトップへ

 ハモンドを弾くことがきっかけで、僕は世界の錚々たるジャズプレーヤーにも会う機会があった。そのなかでも印象に残っているのは、息子の真の話。CTIというグループが大阪に来たとき、僕は6歳の真を連れて行った。すると、そこにはジミー・スミスがいた。「こいつピアノ弾きよるねん」と真を紹介すると、真はそこにあったピアノでブルースを弾き始めた。それを見たジミーが「オー!」と言っているところに、今度はギターのケニー・バレルが入ってきた。真がピアノを弾く姿を見とめると「ノー!」と言って一度出て行き、しばらくするとギターを持って戻ってきた。そして、なんと真のピアノに合わせてギターを弾き始めたのだ。6歳の真とケニー・バレル、あれは忘れられない光景だ。

 そこにはサックスのイリノイ・ジャケイもいて、彼は真に「大きくなったらニューヨークのジュリアード音楽院に行け」と言った。結果的に真はボストンのバークリーに進んだけど、ジャズを目指したいのであれば、やっぱりバークリーが正解だと思う。僕が息子をいろんなところに連れて行ったことは、息子たちにとってもいい経験になっただろう。そうやって育ってきた真や啓と今も親子で一緒に演奏できることを僕は誇らしく思う。

 また、デューク・エリントンやジョニー・ホッジスと会ったのは、震災前のオリエンタルホテルだった。デュークはピアノだけれど、曲の中にはハモンドも入っている。それを弾いているのがWild Bill Davisというハモンドオルガンのプレイヤーだった。僕は当時ハモンドの顧問をしていたので、彼らに付き合うカタチで三日間ほど僕の車で行動を共にした。

 そしてオリエンタルホテルの地下にあるバーで、彼らと一緒に酒を飲んでいたところにやってきたのがジョニー・ホッジス、続いてデューク・エリントンもバー「マーメイド」に入ってきた。僕は信じられないと思いながらもものすごく喜んで、彼らにサインをしてもらった。彼らに実際に会ったのは、僕の数ある自慢の一つだ。

1981年、テディ・ウィルソンと僕。これも思い出の一枚だ。



「Present for you」。 ページトップへ

 アメリカへ行くことになったのは潮先郁男さん、植松良高さんと東京でトリオをやっていた頃だ。たまたま僕らが六本木のジャズクラブでライブをしていたときにアメリカのボビー・ハワードというハモンド弾きが見に来ていた。話がしたいと言うので、彼の元に行くと「明日、お昼ご飯を一緒に食べよう」ということになった。

 翌日、ホテルに迎えに行くと、部屋まで上がって来いと言う。そして僕の前をパンツ一丁でウロウロし、何故か使い古しのシェーバーを「Present for you」と言って渡してくる。僕はイライラして、「こんなもんいらんわ。腹減ったし、はよ行こうや」と心の中で思っていた。…後で分かったが彼はゲイで、そのとき僕は彼にテストされていたのだった。あのとき気がつかなくて本当によかった。僕にその気がないと知ると、ボビーはとても紳士的な態度に変わり、僕らは友達になった。

 ボビーがアメリカに帰って行った後、僕は彼のところに遊びに行くことにした。ボビーはリンカーンに乗っていて、後ろにハモンドを積んだトレーラーを引っ張って仕事に行っていた。その車で、シアトルからサンディエゴまで一緒に行こうと言う。要するに「俺の仕事に付き合え」ということだ。とはいえ、僕はツーリストビザで入国しているので、仕事はできない。もちろん付いて行くだけなら問題はないので、彼らと同行することにした

 そして、いろんな街に行き、レイク・シェランという田舎だが大きな湖のある美しい街に来た。しかし、そこから先は道が狭く、ハモンドを持って入ることはできないということだった。ボビーたちはスポーケンに行くと言い、僕はしばらくの間レイク・シェランに残された。




「あんたの音楽のバロメーターだ」。 ページトップへ

 レイク・シェランでボビーは僕に「Sand&Surf」というレストランクラブを紹介してくれた。ピアノを弾いてみせたら、オーナーのメリーさんはものすごく気に入り、「契約しよう!」と言ってくれた。僕が「仕事はできない」と言うと、彼女は「No plobrem」と言いながらテーブルの上に小さなブランデーグラスを置いた。それはチップボックスだった。僕は「チップはおひねりのような感覚で、いい気分がしない」と言うと、メリーさんは「チップはあんたの音楽のバロメーターだ。音楽が良ければ増えるし、悪ければ少ない」と答えた。なるほどなと感心していると、メリーさんはニタリと笑って今度は直径20cmぐらいある大きなブランデーグラスを置いたのだった。

 それから僕は毎日「Sand&Surf」でピアノを弾いた。町内放送で僕のことも紹介してくれるようなアットホームな街だった。「From TOKYO」と言うので、「違う!From KOBEだ!」と否定すると「I don’t know」と言われてしまった。しょうがないから、「せめてFrom JAPANと言ってくれ」とお願いした。街で車に乗っていても皆が手を振ってくれるほど、僕は街でちょっとした有名人となった。

 街の皆は根っからのジャズ好きで、リクエストはコール・ポーター、ジョージ・ガーシン、リチャード・ロジャースなどの名前が挙がる。40マイルも離れたところからも毎日聴きにきてくれる人がいて、僕は本当に嬉しかった。

 アメリカ旅行はトータルで半年間、そのうちレイク・シェランには1ヶ月滞在した。僕が日本に帰る最後の日にはパーティーを開いてくれた。僕は嬉しくて、最後の日はいつもよりもたくさんの曲を弾き、ラストに「蛍の光」を披露した。皆が泣いてくれたのが印象的だった。翌日、僕はレンタカーで400km離れたシアトルに戻る予定だったのだが、朝9時にメリーさんが家に来いと言う。行ってみると、街の人たちが勢揃いで朝ごはんを振舞ってくれ、なんと車3台でシアトルまで送ってくれると言う。レイク・シェランの人たちの温かさが心に沁みた。音楽はやはり万国共通だなと実感したアメリカ旅行だった。

 

 まだまだ書きたいことは尽きないのだけれど、次はいよいよ最終回。次回は、日本に帰ってきてから現在に至るまで、そしてこれからのことについて書こうと思う。では、次回もお楽しみに。


小曽根実




PAGE TOP