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LazyDad
第四回 [「11PM」と僕。]
「ほな遊びに行くわな」。 ページトップへ
 メディアに出るのを辞めて僕がスーパーで働きだして4年目、昭和40年のことだ。何故かそのときたまたまテレビを付けていると「11PM」という新番組が始まった。藤本義一さん、飯干晃一さんらが出演していて、「おお、面白いな。こんな番組が始まったんか」と思っていたら、次の日、読売テレビで働いている橘功から電話がかかってきた。「11PMという番組が始まったんや」と言うので、僕も「観てたで」と答えた。すると、「一回遊びにおいでよ」と言う。スーパーの仕事が落ち着き始めていた頃だったので快諾した。僕が観た初回放送は火曜日で、電話がかかってきたのが水曜日、そして遊びにおいでと言われたのが、その翌日の木曜日。「ほな遊びに行くわな」と電話を切った。
 スタジオは僕にとっては勝手知ったる他人の家、その日も当たり前のように「おはようございまーす」なんて言いながらスタジオに入っていった。すると、ハモンドオルガンがスタジオに置いてあるし、「ハモンドオルガン=小曽根実」と書かれた台本も用意されていた。なんてことはない、「遊びに来い」ではなくて「仕事しに来い」だったのである。功ちゃんに僕はまんまと騙されたのだ。
 とはいえ、僕もそういうことが嫌いではないので、面白がって出演した。後で聞いた話だが、番組収録が終わった後、藤本さんと飯干さんが「面白い奴やったな。このまま仲間に引き入れよう」と言っていたそうだ。僕がレギュラーになったのにはそういう経緯がある。



「なんぼすんねん」、「88万円や」。 ページトップへ

 「11PM」ではハモンドオルガンがベースになっている。ハモンドは僕の半生にかかせない楽器だ。ハモンドオルガンは、僕と同じ1934年にシカゴで生まれた楽器だ。日本で初めて大衆の耳に触れたのは「鐘の鳴る丘」という番組で古関裕而さんが弾いた曲だと思う。
 「11PM」の話と前後してしまうが、僕がハモンドと出会ったのは大阪テレビに出演するようになった後だ。たまたま隣のスタジオで斎藤超さんが演奏しているのを聴いた瞬間、僕はその音に夢中になってしまったのだった。斎藤さんに聞くと、日本の代理店はメンソレータムで有名な近江兄弟社、価格はその頃で88万円(今で言うと500万円相当)だという。価格にはビックリしたが、僕は元々の生まれがちょっとした家でもある。「斎藤さんに買えて僕に買えないわけがない」と思った。
 とはいえ、そんな大金を出せるわけもないので、僕は一大決心をして親父に相談した。今でも三宮のセンター街、それもナガサワ文具店の前で切り出したことを鮮明に覚えているぐらいだから、相当の決心だ。「おやっさん、ちょっと頼みがあんねんけど」「なんや」「ハモンドオルガン買いたいねん」「どんな楽器や」「鐘の鳴る丘で古関さんが弾いとったやろ」「ああ、あれな。なんぼすんねん」「88万円や」「……」。
 第1回目にも書いたけれど、親父は僕の音楽活動を反対していた。でも、僕がテレビに出ると知って真っ先にテレビを買っていたし、このときも値段に驚いてはいたが結局はポンと貸してくれた。僕は一応「返すから」と言って、二回払いでハモンドを手に入れた。…そして、一応10万円は返した覚えはある。親父にはそれだけしか返してないが、メモを取っていたため生前贈与となって、最終的には親父が故人になった時点で全額支払わされたのだった。
 そんなわけで、僕がハモンドを弾くようになったのは親父のおかげで、そもそも音楽を始めるきっかけになったのはお袋だ。両親には本当に感謝してもしたりない。




「ハモンド音出てない」。 ページトップへ

 「11PM」では最初の一年間はソロで出演した。ハモンドオルガンは電子オルガンの一種で、真空管を使うため、セルモーターを回さなければならない。演奏するためには、まずジェネレーターを回してモーターを一定速度で安定させたところで、Runスイッチを入れる。それで真空管が温まったら演奏が可能になる。ハモンドを作ったのはシカゴの時計職人で、ハモンドを真似たオルガンはたくさん出たけれど、ジャズに向くのはやはりハモンドしかない。
 ある日のこと、「11PM」の本番中にスタジオが暗転するという日があった。ハモンドはジェネレーターが回っている、回っていないに関わらず、「電気が通じている」という証として赤いランプが点く。暗転するまでは、当然ジェネレーターも回っていて、赤いランプも点いていた。
 そして暗転。スタッフは照明ラインの電気を全部落としたのだろう。で、もう一度スタジオが明るくなる。そのとき僕はなんとはなしにオルガンを見た。赤ランプは付いていた。でも、実際にはハモンドオルガンの電気は一度切れていたのだ。だから、ジェネレーターも止まっていて、さあ弾こうというときに音が出ない。僕は身体中から血の気を引くのを感じた。
 スタッフはスタッフで、マイクや音関係のトラブルだと思ったらしい。PAが焦ってスタジオ中のマイクを上げるが、ノイズを拾うばかりだ。しかも、マイクを上げたために、スタッフの「ハモンド音出てない」「ハモンド音出てない」という声までがオンエアにのってしまった。
 僕自身といえば、一瞬青くはなったものの、すぐに原因に気がついた。とはいえ、真空管が温まって再び演奏できるようになるまで最低30秒はかかる。しょうがないから、すました顔で演奏している格好で乗り切った。それから、照明ラインから電源を取ることはやめたので、そういうトラブルはなくなったけれど。




小曽根実トリオ結成。 ページトップへ

 二年目に入って、トリオを組んでいいという許可をもらったので、僕は喜んで結成した。

小曽根実トリオ、奥村英夫(ギター)、西野邦夫(ドラム)、僕。

ギターの奥村英夫、ドラムは大阪管弦楽団にいた西野邦夫と一緒に組んだ小曽根実トリオがそれだ。ちょうどその頃に、「11PM」に6歳のまー坊も出演している。視聴者から「親が付いてて、こんな深夜の番組に出すとはなにごとや!」というお叱りを受けたのでよく覚えている。当の本人は、人前で演奏することが好きなので、まったく物怖じもせずに、トリオとともに世界残酷物語の「MORE」を弾ききった。
 小曽根実トリオは大阪「11PM」の顔にもなった。面白かったのは、木曜日に大阪の局を飛び出して、全国の各地方局の制作で回ったこと。全クルーで旅行気分、札幌から九州までといろいろ回った。この話を細かく書き始めると、本が1冊書きあがってしまうので今回は省略することにする。
 「11PM」では、あの時間帯にマニアックなジャズを聴かせてもしょうがないので、ポップスまで幅広く演奏した。僕らは演歌だけはやらないけれど、逆に言うと演歌以外はなんでも弾いた。そのせいで東京のジャズ屋には「小曽根はジャズじゃない」とも言われたが、僕にしてみたら当たり前の話だ。ちなみに「11PMトリオ」としてCDを一枚出したけれど、それは全く売れないままに終わった。
 そして、「11PM」のレギュラーとして9年目を過ぎた頃、僕の頭には一つの考えが生まれていた。「アメリカに演奏旅行に行きたい」という夢だ。

11PM時代の僕。写真は撮影でタイへ行った時のもの。40歳。



「アメリカに行きたいねん」。 ページトップへ

 9年目というと、言葉は悪いがやはり一つの飽きというか、区切りが見えてくる。ここからもう一つジャンプしたいと考えるのはとても自然なことだった。毎週二回出演となると行動の幅も限られてくるし、当時の僕は「11PM」とラジオ関西のサテライトスタジオの2つ3つぐらいしか番組に出ていなかったと思う。だから、プロデューサーと一緒に山形でムササビの取材をしているときに、「俺、ぼちぼちアメリカに行きたいねん」と相談を持ちかけた。そうすると「みーちゃんの言うことは分かる」と言ってくれたので、その年に僕は「11PM」を卒業することになった。
 大阪「11PM」で自分から辞めると言ったのは僕ぐらいだと思う。でも僕はそれを後悔はしていないし、「11PM」には本当に感謝をしている。「11PM」のおかげで全国区になったのは事実だ。北海道に行っても、九州に行っても、未だに当時の番組を観た人たちが「小曽根さん」と親しみをこめて呼んでくれる。こんなに嬉しいことはないと思う。
 僕が「11PM」を辞めて、それからどうしたかについては、また次回に書こうと思う。その後も面白い話が山ほどある。
 では、次回をお楽しみに。


小曽根実




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