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LazyDad
第三回 [TVの幕開け、そして会社員時代。]
「今日は高校野球で放送はありません」。 ページトップへ
 僕が日本テレビで初のテレビ出演を果たした後、大阪テレビ(現朝日放送)、読売テレビが続けて開局した。大阪テレビでは、小坂務さんたちとクインテットで朝の15分番組に呼ばれたのが一番最初だったと思う。その後、クインテッドは大変だからと、今度は僕とハモンドオルガンの斎藤超さん、シンギングピアノの岩崎洋さんの三人で朝の番組を担当した。
小坂 務クインテット、大阪テレビ(現 朝日テレビ)にて。
後列右から、加藤竜吉テレビディレクター(ドラム)、中江ディレクター、山口ディレクター、小坂務(ギター)、多田稔(ドラム)、 前列右から、僕、谷田芳光(ベース)、有近信彦(ビブラフォン)
 朝7時から始まる番組、もちろん生放送だから、僕は毎週朝4時に家を出て、北新地にあるテレビ局へ通った。その頃、僕はまだガキだったから、車なんて当然持たせてもらえないため電車で通いだ。快速もないので、各駅停車の電車に揺られながら大阪まで行く。途中で魚屋のおじさんが魚が入った箱を持って乗ってくるので、電車の中は大層生臭かったのを今でもときどき思い出す。そうして苦労しながら辿りつくと「今日は高校野球で放送はありません。電話したのですが、もう出発した後でした」ということも何度かあった。
 ほかにも、開局当初のテレビ局のスタッフは、ラジオから流れてきた人ばかりで誰もテレビのノウハウがないため、今では考えられないような失敗が多かった。たとえば、進行で出演者に見せる「5分前」というフリップ。普通ならテレビカメラの後ろや脇で振るものだが、何故かカメラの目の前で振る。「5分前」と書かれた裏には「4分前」と書いてあるから、お茶の間には「4分前」という字がデカデカと映し出されることになった。
 また、当時のカメラはズームイン、ズームアウトができないから、カメラを前後に引くことになるのだけど、ものすごく重たいので、一度勢いが付いてしまうとなかなか止まらない。下がったはいいけど止まらないから、映してはいけない大道具のおじさんが煙草を吸っている姿まで放送してしまうなど、なにかと面白い事故が多かった。
当時のテレビカメラ。標準、望遠、広角×2と、レンズが4つもある。



「高下駄でつまずいて転んだ音を作って」。 ページトップへ

 そんな風にいろんな番組にちょこちょこ出ていると、また違う番組に呼ばれる。思い出すだけでも「ポーラの婦人ニュース」、「コーラスアラカルト」、「奥さま自動車読本」などなど。なかでも、印象に残っているのは読売テレビの「お笑い哲学」という番組。吉本新喜劇のようなコントに音を付けてくれと言う。どういう音なのかと質問すると、「高下駄でカッカッカと歩いてきて、カカッとつまずいて転んだという音だ」と言う。しょうがないから、ビブラフォンとパーカッションとピアノとハモンドを置いてもらい、僕専用のモニターを一つ貰った。モニターを見ながらタイミングよく音を鳴らすのだ。
 ある日、いつものようにモニターを見ながら演奏しようとすると、僕のモニターの前に立ちふさがる人たちがいる。その人たちの頭でモニターが見られないので、僕はつい「どけ!」と大きな声で怒鳴ってしまった。すると営業の人が青い顔で飛んできて「スポンサーです!」と僕に言う。本番中なのだからスポンサーもなにもあったものではない。本番中は僕の方が偉いのだ、もちろんスポンサーも謝ってくれた。
 それから、読売ではちょうど大阪「11PM」の前身になるような、お昼のワイドショーのような番組も担当した。この番組をプロデュースしていたのが、大阪の女傑、末次攝子さんだ。彼女は僕を可愛がってくれて、僕は彼女からテレビというもの、芸能人というものの関わり方を学んだ。「人を見たら礼を敬え。売れれば売れるほど、稲の穂は実れば実るほど頭を下げるんや」と、末次さんから受け継いだ教えは、今は僕から息子二人にも受け継がれている。




「スーパーマーケットをやりたい」。 ページトップへ

 読売、朝日、大阪のほかにも、毎日放送、NHKにも出演した。NHKでは、小坂コンボにいるときに和田勉さんという大プロデューサーの番組で「現代人間模様」というドキュメンタリードラマの音楽を書いた覚えがある。その頃のNHKの代表番組で、夜の7時からスタート。その頃は労働組合の問題もなかったから夜中の12時ぐらいから録音開始して朝の5時頃に終わるというような感じだった。4回分ぐらい作曲して、僕にはやりがいのある仕事だった。そのとき和田さんのサブにいたのが土居原作郎さんで、当時は僕の家まで使いに来てくれるような新人さんだった。そのときには、あんなに大プロデューサーになるとは思ってなかった。今はもう現役を退いておられると思うけれど、できればもう一度お会いしたいと思う。
 そんなこんなで僕は、テレビ番組5本、ラジオ3本のレギュラーを持つようになっていた。順風満帆で、この頃に結婚もしたのだが、僕はあることをきっかけにメディア出演を全て断ることになった。そのあることとは、僕の親父がスーパーマーケットのハシリのような商売を始めたことだ。
 親父は、当時はまだ一般的ではなかったスーパーマーケットを、海外で見て「日本でもやりたい」と言う。しかし、長男はその頃、保険会社の見習いのようなもので仙台に行っており、次男は肺結核で入院していた。誰もやる人がいないので、僕に白羽の矢が立ったわけだ。




「多聞ディスカウントセンター」誕生。 ページトップへ

 スーパーマーケット業に専念するといっても、僕は商売に関してはまるで素人なので、最初の1年間は平社員だった。当然給料も低い。テレビやラジオに出ているときの1/3ぐらいになってしまった。結婚して長男のまー坊が生まれたばかり、僕の奥さんは真っ青になった。でもまあしょうがない、人生にはいろいろ付きものなのだ。あのときには奥さんには苦労をかけたと思う。

僕、妻、長男まー坊、次男の啓と。

 平社員の僕の上司は、三越出身のおじさんだった。百貨店出身の人だから、僕同様スーパーのことはまるで分からない。彼のなかではスーパーも百貨店も同様だったのだろう、彼が手掛けた内装は百貨店そのもので、ショーケースを何十、何百個と作り上げてしまった。お行儀よくショーケースに並べられた商品、でも店の名前は「多聞ディスカウントセンター」、そもそものお客さんが「ディスカウント」という言葉の意味をよく知らない。当たり前だけど、びっくりするぐらい流行らなかった。
 流行らないスーパーだったが、二年目に入ったときに僕は常務取締役に昇格した。といっても、平社員に毛が生えたようなもので、大阪まで現金を持って女の子の下着を買い付けに行くのも僕の仕事だった。ブラジャーやパンツ、そんなもの男の僕が知るわけがない。薄いブルーのことをサックスと言うが、楽器のことじゃなくて色の名前だということをそのとき初めて知ったぐらいだ。もちろんブラジャーにサイズがあるのも知らなかった。
 卸専門店の女の子のアドバイスを聞きながら買い付けていたのだが、一度ぐらいは自分のセンスで買ってやろうと思って真っ赤なフリルのパンツを1デカ(10枚)購入して帰った。このパンツには、その後、面白いエピソードがある。




「常務!売れました!」。 ページトップへ

 持ち帰った赤い下着を百貨店出身のおじさんがショーウィンドウの中に飾る。もちろん売れない。しかし、多聞ディスカウントセンターの近くには福原商店街という、日本でも有名な歓楽街があった。それで、僕はひょっとしたらと思い「ディスプレイしたら売れるかも」と、壁に穴の開いたボードを取り付けて、ピンで赤い下着を斜めに飾ってみた。すると、なんと3000円の赤い下着がものの10分で売れてしまった。誰も売れないと思っていたのか、そのときには「常務!売れました!赤いパンツが!」と部下が飛んできて僕に報告したぐらいだ。百貨店出身のおじさんは目が点になっている。気を良くした僕らが色違いの下着をまた同じように飾ると、瞬く間に1デカ完売したのだった。
 そのほかにも、スーパーを流行らせるために僕はいろいろ画策した。せっかく音楽をやっていたのだからとビルの中でコンサートを開いてみたり、中原淳一さんの「それいゆ」の商品を買い付けに東京にも行った。中原さんの奥さんは、シャンソン歌手の葦原邦子さんで、葦原さんのコンサートでは僕をいつも指名してくれていた。ジャズではないけれど、シャンソン歌手からの指名は多くて、ディック三根さんもそうだったので、僕は常務をしながらも、コンサートの伴奏などは引き受けた。
 そんなふうに立ち上げた「多聞ディスカウントセンター」が、ようやく落ち着いてきた4年目のことだ。読売テレビで「11PM」という番組が新しく始まったのは。
 「11PM」は説明するまでもなく、当時の読売テレビと日本テレビの超看板番組でもあり、覚えている人も大勢いるだろう。僕にとっても、「11PMの小曽根」として僕の名前を全国区にしてくれた番組だ。そのことについては、また次回に詳しく書きたいと思う。
 では、次回をお楽しみに。


小曽根実




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