そうこうしているうちに、今度はギターの小坂務さんのバンドからお呼びがかかった。小坂さんの娘さんは「あなた」で大ヒットした小坂明子さんだ。僕と小坂さんとは昔からの知り合いで、僕の家で開催していたダンスパーティーにも来られていた。まだ子どもだった頃に一緒に旅行した記憶もある。小坂さんのバンドは、小坂さん自身がつくった9ピースのダンスバンドで、僕が声を掛けられたのは5人編成のクインテットだった。そこにはヴィブラフォンの有近信彦さんや素晴らしいギターを弾く潮崎郁男さんらがいて、僕にとってものすごくジャズの勉強になったバンドだった。この頃から少しずつ、モダンジャズになっていったように思う。
ある日、クインテットのメンバーで、MJQのナンバーを僕らが演奏していたら、小坂さんが無理やり入ってくる。MJQにはギターはいなかったから本当はギターなんていらないのだ。だから、皆で「おっちゃん邪魔やわ!」と言いつつも、結局最後には皆で演奏したりした。とてもチャーミングな人だった。
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昭和29年12月12日 東京 日本テレビにて。
右から、鳥居則達(Vo)、大越泰三(Tb)、福井康平(Banjo)、僕、右近雅夫(Tp)、油井良光(Cla)、鈴木敏夫、?さん |
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そしてこの頃、僕は日本テレビで人生初めてのテレビ出演を果たした。忘れもしない昭和29(1954)年12月12日のことだ。僕は当時20歳だった。このときのプロデューサーが井原高忠さんで、井原さんは名プロデューサーとしてご存知の人も多いと思う。当時の井原さんは僕らから見るとそれはもうお洒落で格好良かった。今の若い人が見たら大笑いすると思うけれど、当時はパッチズボンという、裾口が6インチしかないズボンが流行っていて、井原さんはそれがとても似合っていた。細いネクタイも格好良かった。
僕はディキシーで活動しつつ、ラジオやテレビにも出演するようになっていた。正直なところ、学校にはもうほとんど行っていなかった。籍はおいていたので、よく学園前まで行って友達とご飯を食べて帰るなんてことはしていたけれど。
そして昭和31(1956)年に今の朝日放送の前身である大阪テレビが北新地にできた。僕とテレビ局の話はここから始まる。あの頃のテレビはまだ始まったばかりで、それこそ今では考えられない現場だった。なにしろ誰もがテレビがどういうものなのかも知らず、スタッフですらゼロからのスタートだったのだから。次回では、その当時のことを詳しく書こうと思う。
それではまた、次回をお楽しみに。 |