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LazyDad
第二回[僕の波乱万丈な大学時代。]
「お前はどっちやねん!」。 ページトップへ
 僕がオリジナル・ディキシーランド・ハートウォーマーズに誘われたのは、確か高校三年生から大学一年生ぐらいの頃だったと思う。「ストライドピアノを弾く奴がいる」と言って鈴木敏夫が僕のところに頼んできたのだ。行ってみるとトランペットは右近雅夫、ドラムが加藤龍吉、トロンボーンはタイガー大越のおじさんである大越泰蔵、バンジョーの福井康平なんかがいた。ディキシーは関西大学に進学した僕と早稲田に在籍していた平生舜一の二人だけが異分子で、後はみんな関西学院大学の学生だった。
 その頃、関西関東六大学で集まって、東京の大きな体育館でコンサートが開催された。当然ディキシーも関学バンドとして参加するし、関大からも大塚善章なんかがいたバンドが参加していた。僕は関大生だし、ディキシーのメンバーだから自然と、二つのステージに出演することになる。そうすると、客席の方から「お前はどっちやねん!」なんて大きな声で聞かれたものだ。舞台上ではその声を無視して、すましてピアノを弾いていたけれど、内心ではとても面白かった。
 そういえば、この頃から今までずっと僕のファンでいてくれている大場さんというおばさんがいる。もう本当にずっと僕のコンサートを追っかけてくれていて、この間も「俺、今度日本丸に乗るんや」と大場さんに言ったら、彼女も「乗るー!」と言っていた。この頃からずっと好きでいてくれるなんて、本当にありがたいなと思っている。大場さん、いつもありがとう。



ハイトーンのところで、「ぷっすー」。 ページトップへ

 外国人専用のクラブ「モロッコ」でアルバイトをしたのは、ちょうどディキシーで活動している頃だった。最初に鈴木敏夫がアルバイトに行っていて、後から「誰かピアノできる奴おらへんか」と僕が誘われた。あの頃はジャズのピアニストはまだ貴重品で、弾く人が少なかったのだろう。ピアニストが一番ギャラも待遇も良かった印象が残っている。
 モロッコに行ってみると、そこにはトランペットの片岡学がいた。あいつは僕と同い年で、当時二人は若さバリバリの19歳だった。モロッコの入口には「Off Limits To US Personal」と書いてあり、米軍関係者は立ち入り禁止の神戸在住の外国人を対象にしたクラブだったが、日本人もチラホラ見かけた。そこでときどきショーが始まるのだ。
 ショーというのは、つまりストリップである。日本人の女性が羽を付けて大きな扇を持って踊るのだ。見てるのは神戸にいる外国人ばかりだ。そのときももちろん僕らは音楽担当として演奏を続けている。確かあれはBesame Muchoを演奏していたときだった。ストリップの最中、片岡はトランペットなので当然立って吹いている。観客には全部が見えないように配慮されていたが、片岡の場所からは舞台が丸見えだった。そして、片岡の目の前で女性がぱっと足を開いたところで、片岡は一番ハイトーンのところで「ぷっすー」と大失敗したのだった。あれはバンドも観客も全員が大爆笑だった。僕はこの話が凄く好きで、今までにもコンサートのMCなどで何度も話している。今思い出しても笑いがこみあげてくるほどだ。




「うるさいピアノやなー」。 ページトップへ

 僕はピアノ担当だったので、いろんなところで重宝がられていたけれど、独学なのでその頃はまだ演奏というものがあまり分かっていなかったと思う。当時、トロンボーンに今井くんという人がいたのだが、「うるさいピアノやなー」と言われたことがあった。今だったら、ちゃんと周囲の音を気にしながら弾くのが当たり前だけど、その頃はなんでも弾ければいいと思っていた。さらに告白すると、当時では珍しいことではなかったけど、この頃の僕は譜面も読めなかった。後になって読めるようになって、今はもうすっかり平気だ。蛇足だが、息子のまー坊も譜面には実は弱かった。とはいえ、耳で音楽を覚える人にとって、楽譜は参考資料程度にしかならない。やっぱり音楽は体で感じるもの、譜面だけではいい音は鳴らせないのだ。
 あと、アルバイトといえば、当時のミュージシャンにとって一番ポピュラーだったのは駐留軍のキャンプだと思う。もちろん僕も大阪の信太山や伊丹の3to1、神戸の外国人倶楽部、奈良などいろんなキャンプに行って演奏した。それがジャズを勉強するうえですごい経験になったと思う。
 キャンプに行く道中も面白かった。たとえば、大阪だと大阪駅に集合したら、駐留軍のハーフトラックが迎えにきて、そこに楽器を積んでキャンプまで行く。舗装されてないガタガタ道を車で行くから大変だ。ホコリを巻き込んで走るので、キャンプに着いたらベースはもちろん、僕らも真っ白になっていて、口の中もジャリジャリだったのを覚えている。流石にピアノは持っていけないので現場で借りるのだが、それがスピネット型のコンパクトなピアノだ。戦地に持っていくのだから小さくないといけないのだろう。キャンプではいろんな人と出会ったし、演奏もした。今でもいい思い出だ。




昭和29年12月12日のこと。 ページトップへ

 そうこうしているうちに、今度はギターの小坂務さんのバンドからお呼びがかかった。小坂さんの娘さんは「あなた」で大ヒットした小坂明子さんだ。僕と小坂さんとは昔からの知り合いで、僕の家で開催していたダンスパーティーにも来られていた。まだ子どもだった頃に一緒に旅行した記憶もある。小坂さんのバンドは、小坂さん自身がつくった9ピースのダンスバンドで、僕が声を掛けられたのは5人編成のクインテットだった。そこにはヴィブラフォンの有近信彦さんや素晴らしいギターを弾く潮崎郁男さんらがいて、僕にとってものすごくジャズの勉強になったバンドだった。この頃から少しずつ、モダンジャズになっていったように思う。
 ある日、クインテットのメンバーで、MJQのナンバーを僕らが演奏していたら、小坂さんが無理やり入ってくる。MJQにはギターはいなかったから本当はギターなんていらないのだ。だから、皆で「おっちゃん邪魔やわ!」と言いつつも、結局最後には皆で演奏したりした。とてもチャーミングな人だった。

昭和29年12月12日 東京 日本テレビにて。
右から、鳥居則達(Vo)、大越泰三(Tb)、福井康平(Banjo)、僕、右近雅夫(Tp)、油井良光(Cla)、鈴木敏夫、?さん

 そしてこの頃、僕は日本テレビで人生初めてのテレビ出演を果たした。忘れもしない昭和29(1954)年12月12日のことだ。僕は当時20歳だった。このときのプロデューサーが井原高忠さんで、井原さんは名プロデューサーとしてご存知の人も多いと思う。当時の井原さんは僕らから見るとそれはもうお洒落で格好良かった。今の若い人が見たら大笑いすると思うけれど、当時はパッチズボンという、裾口が6インチしかないズボンが流行っていて、井原さんはそれがとても似合っていた。細いネクタイも格好良かった。
 僕はディキシーで活動しつつ、ラジオやテレビにも出演するようになっていた。正直なところ、学校にはもうほとんど行っていなかった。籍はおいていたので、よく学園前まで行って友達とご飯を食べて帰るなんてことはしていたけれど。
 そして昭和31(1956)年に今の朝日放送の前身である大阪テレビが北新地にできた。僕とテレビ局の話はここから始まる。あの頃のテレビはまだ始まったばかりで、それこそ今では考えられない現場だった。なにしろ誰もがテレビがどういうものなのかも知らず、スタッフですらゼロからのスタートだったのだから。次回では、その当時のことを詳しく書こうと思う。
それではまた、次回をお楽しみに。


小曽根実




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