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LazyDad
第一回[僕が音楽を始めた頃。]
「これやったら俺でも弾ける」。 ページトップへ
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 僕は昭和9年に神戸市須磨区で生まれた。その頃「須磨の小曽根邸」というと、神戸では有名な洋館として知られていたものだ。「ジャズピアニストになったきっかけは?」とよく聞かれることがあるのだが、それは僕の生い立ちからお話ししないといけない。
 僕が生まれる前、両親は新婚旅行でロンドンに滞在していたらしい。僕は日本で生まれたけれど、姉はロンドンで誕生したというから、その滞在期間は結構長かったんだと思う。それで、帰って来た昭和5年には、日本はもう戦争前夜という雰囲気だった。。ヨーロッパに行っていたなんて、戦時中には国賊みたいなもの、当時は政府からにらまれていたのか、戦争が終わっても憲兵が家に来ていたのを覚えている。
 戦後、洋館だからという理由で僕の家は米軍に接収されることになり、クリアウォーターという、日本語で言うと清水さんという苗字になる大佐の一家が我が家の本邸に移り住んで来た。
 その頃、戦時中にピアノを弾くというのはあり得ないことなので、たぶん戦後まもなくの頃だったんだと記憶してるのだけど、母がよくピアノを弾いていた。我が家にはドイツのシードマイヤーという当時とても高価なアップライトのピアノが置いてあった。今、思い返してみても不思議なんだけど、何年も調律してないのに音が狂わない素晴らしいピアノだった。これは、僕が10~11歳ぐらいのときだったと思う。  僕は母がピアノを弾いてる姿を覚えているんだけれど、彼女のピアノはいつも完成品じゃなかった。というのも、「乙女の祈り」や「エリーゼのために」、メンデルスゾーンの「春の歌」、彼女が弾けるのはこの三曲だけだったが、全部演奏の途中でやめてしまうのだ。だから僕は「これやったら俺でも弾けるわ」と思って、母が不在のときにちょこちょこピアノを弾き始めた。それが僕のピアノを始めたきっかけだ。
 僕が見よう見真似でピアノを弾き始めた頃、我が家では進駐軍のパーティーがよく開催されるようになり、その度にアメリカの将校クラスの人間がいっぱい集まってくる。本邸に住んでいるクリアウォーター一家もダンスパーティーのたびに訪れて、彼が来ると将校たちが「ははー」となる姿が子ども心に面白かった。
 進駐軍の開くダンスパーティーでかかる音楽といえば、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーなど。当時のジャズは「聴く」ものではなく、「踊る」ための音楽だったのだ。その頃のレコードは兵隊さんが戦地で音楽を聞くために、持っている音楽をなんでも全部入れちゃったという凄まじい内容で、Vディスクと呼ばれていた。そんなレコードだから、アメリカでレコーディングされたとんでもないものが混じっていたりする。グッドマンが通常とは違うレコーディングメンバーと一緒に演奏してる曲が入ってたりするようなレコードまで、進駐軍は我が家に持って入ったのだった。
 ロンドンに滞在していた両親も、ダンスパーティーに喜んで出席していた。特に母は、自分でもダンスがしたいと、新たにレコードを買ってきたりもしていた。そのなかの一枚が「マイ・ハピネス」という女性ボーカルの歌だ。



たまたま、「あ!弾けるやん」。 ページトップへ
 ある日、僕がたまたまピアノを弾いていたら、その「マイ・ハピネス」のワンフレーズを弾くことができた。本当に偶然なのだけど、そのときに「あ!弾けるやん」と思ったのが、僕のジャズ人生の始まりだったと思う。
 当時はジャズの譜面などあるはずもないから、レコードで聴いた音だけが頼りだったが、主旋律を弾くことができたことに気をよくした僕は今度はこれに伴奏を付けたくなった。それで、なんとなく学校で習った和音を付けてみたら、これもまた「弾けるやん!」。3つのコードを組み合わせただけで「ジャズ」になったのだ。
 今思うと、たぶん母が好んで聴いていた「マイ・ハピネス」を、僕の耳は知らぬ間に覚えていたのだろうと思う。ほかにも、今まで母がピアノを弾く音を聴いていたし、進駐軍のダンスパーティーだってそうだ。終戦から1、2年のことだが、その間に僕は知らず知らずジャズの音感を身に付けていったのだろうと思う。
 それで、和音の次は左手を「ぶん・ちゃか」とやってみた。そのときはピアノの技術的なことなんてさっぱり知らないから、本当に「なんとなく」だった。でもこれが、今で言う「ストライドピアノ」という奏法なのだから驚きだ。息子の真も現在、ストライドピアノをバリバリ演奏しているが、あれは僕のスタイルを見て真似をしたら、オスカー・ピーターソンもやっていたというので、そのままストライドを続けているらしい。後々聞いて、びっくりするとともに面白いと思ったものだ。
 だから、結果的に我が家が洋館であったこと、進駐軍が入ってきたこと、ピアノがあったこと、母が「マイ・ハピネス」を買ってきて、それを弾いてみたという偶然が重なって、僕のジャズは始まったわけだ。



「お前のピアノ、面白いやないか」。 ページトップへ
 実のところ、僕がピアノを弾くことに親父はとても反対だった。親父は長唄派で、「男がピアノなんて」という考えの持ち主だったから、僕は家にピアノがあるにも関わらず、中学生になったときには自宅でピアノが弾けなくなってしまった。しょうがないから母校である滝川中・高等学校の講堂でピアノを弾いていたら、恩師である大塩先生に見つかってしまった。終戦からまだ2、3年しか経っていない頃だったので、僕はそれこそ「男がピアノなんて」と叱られると思ったのだけど、大塩先生は僕のピアノを聴いて「お前のピアノ、面白いやないか」と言ってくれ、しかも「家で練習できひんのやったら、講堂のピアノを使え」とまで申し出てくれた。今でも、大塩先生には本当に感謝していて、当時僕らは先生に「テンコチ」なんてあだ名をつけたりしていたけど、僕はとても大塩先生が好きだった。後に僕がアメリカに行くときも、先生のお墓参りに行って、先生が好きだったお酒と一緒に「アメリカに行ってきます」という報告もしたぐらいだ。
 先生のその申し出のおかげで、僕は毎日学校でピアノの練習に励むことができた。当時、講堂のピアノに黒板消しを放り込む悪戯が流行っていたんだけど、僕が練習するようになってからは悪戯もぴたりと止んだ。それを大塩先生はめちゃくちゃ喜んでくれて、高校生になったら「よし、じゃあ文化祭のときになんか弾け」と勧めてくれた。
 それで高校一年生の文化祭のときに、僕は耳でコピーしたクラシックの「バンブル・ブギー(熊蜂の飛行)」をブギウギにアレンジした曲を披露した。ちなみに、この曲を今弾けと言われても弾ける自信はないが、とにかく当時は上手く弾けた。そしたら、文化祭に来ていた須磨女子という近所の女子高の女の子たちにとても受けた。正直言ってしまうと僕はこれが凄く嬉しくて、このときの楽しさがそのまま「ジャズの楽しさ」になってしまった。だって今思い出してみても、女の子たちが花束や人形を持ってきてくれて、ちょっとしたスターだったんだもの。今で言うジャニーズのような気分だった。



「ミー坊、ラジオ出したろか」。 ページトップへ
 文化祭に出た頃、僕の家にピアノがあることを知って、灘高に通っている奴らが僕の家に「練習したい」と訪ねてきた。それで、サックス吹く奴、ギターを弾く奴なんかが集まって、練習をするようになった。その頃には、長唄派の親父も半分しょうがないと諦めていたんじゃないだろうか。実際は、僕が「11PM」に出るようになってからようやく本当に認めてくれたんだけど、それまではずいぶん文句を言われた。おかしなもので、ダンスパーティーのときは親父もロンドン滞在経験があるものだから、喜んでダンスを踊っていたのだが、僕がピアノを弾くと怒るのだ。でも、結果的にはハモンドオルガンを買ってくれたわけだから、実は認めてくれていたんじゃないかと思う。
 そして、ちょうど皆と集まって練習してた頃に、今のラジオ関西、神戸放送株式会社の放送が始まった。今では信じられないかもしれないけど、ワイヤーで引っ張っているだけの、まるで吹けば飛ぶようなアンテナが須磨にも立っていたのをよく覚えている。
 たまたま神戸放送株式会社にいる知人のおじさんが、「ミー坊、ラジオ出したろか」と声を掛けてくれた。ピアノなんかでラジオに出られるのかなと思っていたら、本当に紹介してくれてたから実現することになった。そのとき、僕のピアノを聴いてくれた油井正一さんが、僕のストライドを聴いて「これはアール・ハインズの若い頃に似ている」と雑誌に書いてくれた。当時の僕はもちろん、アール・ハインツがどこの誰とか全然知らないんだけど、後で調べてみたらベタベタのディキシーランド・ジャズ、そのなかでも泥臭いピアノを弾く人だったからちょっと面白い。
 ラジオなんてどうすればいいのか分からないけど、その頃の僕はとりあえず耳で覚えた曲を片っ端から演奏していた。そうこうするうちに、バンジョーをやっている福井康平という友達が右近雅夫のバンド(オリジナル・ディキシーランド・ハートウォーマーズ)に在籍していたのだが、ピアノが足りないと言う。当時ベースをやっていた鈴木敏夫に誘われて、僕が新たに加入することになった。ディキシー時代は本当に毎日楽しかった。その頃のことは、また次回にたっぷり書こうと思っている。

小曽根実




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