ビッグバンド漫談
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田中啓文のビッグバンド漫談
大きいことはいいことか

はっきり申しましょう。三〇年代~四〇年代の、マイクがなかった、あるいは完備されていなかった時代に、ダンスフロアで客を踊らせるにはそれなりの音量が必要だったのだ。生音ででかいボリュームを得るには、ミュージシャンの数が必要だ。チャールズ・ミンガスも、
「あれはビッグバンドじゃない。ラウドバンドだ」

と言っている。マイクが発達し、シンセも発達した現代に、なにゆえビッグバンドなのか。人数が多いことにどれほどの意味があるのか。サウンドとしては、シンセで代用できることはまちがいない。なぜビッグバンドは人数が多いのか。少ないほうがでられる店も多いじゃないか。どうだ、どうだ、どうなんだよーっ!

では、お答を申しあげましょう。現代において、ビッグバンドの存在する意味は、
・個性のぶつかりあい
・見た目

この二点である。

サウンドがどーのこーのといっても、やはりそれは人間が演るものであるから、いくらシンセが「ひとりでできるもん」と威張っても、それはひとりの人間が操っているだけである。十人の人間が寄れば十人分、二十人の人間が寄れば二十人分の熱気が集まる。アマチュアバンドの場合、とくにこれが大事なのである。人間の「気」を結集させると、なにか面白いことができるのである。プロの場合はギャラの問題とかもあって、なかなかできないが、アマチュアバンドは、個性のある連中をとにかくたくさん集めると、ソロもおもしろくなるし、互いの個性のぶつかりあい、せめぎ合いで、どんどんバンドは良い方向に行く……場合もあるが、もちろんぶつかりあいすぎてトラブル続出ということもありうる。人数が多いと、練習場所の問題、連絡の問題などいろいろ煩雑になりすぎるという欠点もある。十四ピースのバンドなら、十四回電話をしなくてはならないが(メールでも、返事がなかったら何度もメールしないといけないので、電話のほうが返事がすぐにもらえて確実。でも、留守電だったらメールと同じこと)、スタン・ケントンが四十人編成だったときは、ジャーマネはさぞかしたいへんだったろう。

もうひとつは「見た目」である。いくら、音楽的には同じでも、二十人近い人間が集まって、ぶあーっと吹いているのと、シンセがひとりで弾いているのとではまるでインパクトがちがう。演歌歌手のバックとかでも、シンセ一台よりも、ビッグバンドがでーんと座っていて演奏するほうがゴージャス度の点ではるかに勝っている。

やはり、大きいことはいいこと……なのだ。

結局、十人編成でもコンボはコンボ。7人編成でもビッグバンドはビッグバンド。シンセがすべてを代用しているようなバンドも、音楽的には「ビッグバンドジャズ」なのではないか。つまり、人数の大小ではなく、「ビッグバンドサウンド」を出しているバンドこそがビッグバンド、という結論に達したが、まあ、ありきたりでしたね。

著者Profile
田中啓文
1962年、大阪府生まれ。作家。
神戸大学卒業。1993年、ジャズミステリ短編「落下する緑」が「鮎川哲也の本格推理」に入選。
同年「背徳のレクイエム」で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。2002年「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で第33回星雲賞日本短編部門を受賞。主な作品に「蹴りたい田中」「笑酔亭梅寿謎解噺」「天岩屋戸の研究」「忘却の船に流れは光」「水霊 ミズチ」(2006年映画化)などがある。
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